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ローマ人への手紙

でも私は、そんなに悪くないでしょう?

多くの人々は次のように疑問を抱きます。

「たとえ善良な人であっても、多くの人がイエス様を信じていない。どうして神様は彼らを拒絶されるのか。

永遠の命を求めるならば、クリスチャンにならなければならないのか。

例えば、ガンジーはとても善良な人だった。殺人や暴行を犯した者が地獄に行くのは理解できるが、なぜガンジーも地獄に行かなければならないのか。」

あるクリスチャンの中にも、このことを疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、この考え方の問題は、私たちの「良い」という概念が歪んでいることにあります。

私たちは自分の都合で「良い」を定義することはできません。

また、「良い」という基準は神様の外にあるものではありません。

神様は「私は『良い』という基準に従わなければならない」と考えられることは決してありません。

神様ご自身が「良い」の基準なのです。

だからこそ、何が本当に良いのかを知りたいと思うならば、私たちは神様を見つめなければなりません。「良い」という定義は、神様の御性格から生じるものだからです。

そして、どのような行いが善であり、悪であるかを知りたいならば、神様が人間をどのように造られたかを見る必要があります。

それこそが神様の律法の目的です。律法を通して、私たちは神様がどのようなお方かを知ることができ、また、私たちがどのように生きるべきかを理解することができるのです。

したがって、私たちの「善」を測る際に、自分自身を周りの人々と比較することは適切ではありません。なぜなら、彼らの人生が「良い」の基準ではないからです。

また、私たちの文化の価値観を基準にすることも適切ではありません。私たちは神様に目を向け、神様の御性格によって自分を測らなければならないのです。

けれども、そのようにすると、「良い」という基準を満たす人は誰もいません。だからこそ、パウロはこう語りました。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。

悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ人への手紙3:9-12)

パウロは何を言いたいのでしょうか。

神様の前に、自分の義を誇ることができる人が誰もいないことです。神様は彼らの義を認めません。

なぜでしょうか。彼らは「義」という言葉の意味さえ、正しく理解していないからです。

では、なぜ彼らは「義」ということがわからないのでしょうか。 それは、彼らが神様を求めず、むしろ神様に背を向けているからです。

そして、神様に背を向けることは、一番ひどい罪です。レイプだはなく、殺害ではなく、神様に背を向けるのは一番ひどい罪です。なぜでしょうか。

なぜなら、私が以前言ったように、「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。神様は「善」の源です。

人々が善の源に背を向けるとは、「悪」の定義ではないでしょうか。

善の源に背を向けると、どうなるでしょうか。あなたの心から悪が流れて、あなたは悪いことを言ったり、悪いことをしたりします。

あなたは、何回ぐらい嘘をついたでしょうか。あなたは、何回ぐらい人の悪口を言ったでしょうか。何回ぐらい苦い言葉があなたの口から流れたでしょうか。何回ぐらいあなたの言葉で相手を傷つけたでしょうか。

そのような言葉は良い心から流れるでしょうか。

これまでに、自分の誤った決断によって、あなたの人生はどれほど混乱したでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは自分の行いによって人々を傷つけたでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは「神様のみ言葉を知っていながら、私は自分の道を進む」と言ったでしょうか。

もしあなたが正直であるなら、これまでに挙げたことをすべて自分が行ったと認めるでしょう。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(19-20)

ガンジーが神様の前に立ち、神様が彼を裁かれると、ガンジーは何も言えなくなるでしょう。なぜなら、神様がガンジーの罪をすべて明らかにされ、ガンジーはその罪を認めるからです。

それだけでなく、ガンジーは「私はその罪を犯した瞬間に、自分が悪かったと知っていました」と認めるでしょう。

ガンジーは一切の言い訳を持ちません。なぜなら、彼が聖書をすべて知らなかったとしても、彼自身の良心が彼を裁いたからです。

しかし、ガンジーは、きっと少しでも聖書を読んだことがあったでしょう。

(どうしてクリスチャンにならないのかと聞かれた際、ガンジーはこう言いました。 「あなたのキリストは好きです。けれども、クリスチャンのことは好きではありません。なぜなら、クリスチャンたちはキリストとは全然違うからです。」)

とにかく、彼が聖書を読んだとき、彼の責任は増しました。なぜなら、聖書は鏡のようにガンジーに自分の罪を映し出したからです。

同じように、もしあなたがイエス様を拒絶するならば、裁きの日には言い訳を持つことはできません。そして、神様に裁かれることになるのです。

だから、自分自身を欺かないでください。「私はそんなに悪くはない」と主張しないでください。

私たち全員が罪人であり、神様の恵みを必要としています。

裁きの日にそれを認めるよりも、今認めた方がよいのです。