ついに、この箇所を終えます。皆さんは忘れていたかもしれませんが、この議論は実際に8章から始まりました。
そして、パウロがこの箇所をまとめるとき、彼はコリントの人々にとって最も重要な疑問を指摘します。それは、「彼らは誰を喜ばせようとしているのか?」という問いです。
現代のクリスチャンも、同じ疑問に直面します。
私自身、自分の権利を大切にしています。そして、私の権利が踏みにじられると、すぐに怒りを感じます。また、私が正当に得るべきものが奪われると、心がかき乱されます。くだらない例ですが、誰かが列に割り込むと、私は腹が立ちます。
そして、私は妻、同僚、教会の人々をどのように扱うかを考えます。そのとき、自分の権利を主張するのは簡単です。私は公平さを求め、自分が値するものを受けるべきだと訴えます。
しかし、それに集中すると、私たちが誰を本当に喜ばせようとしているのかが明らかになります。 それは、自分自身です。
「信仰の強い」コリントのクリスチャンたちは、そのような者でした。彼らは、傷つきやすい良心を持つ兄弟たちを気にせず、その兄弟たちの前で何でも食べました。
また、ノン・クリスチャンに対する証しが損なわれても、彼らは偶像に捧げられた肉を食べました。なぜでしょうか。それは、彼らがその肉を食べる権利を持っていたからです。
11章では、彼らのわがままな態度を再び目にします。彼らは貧しい兄弟たちに恥をかかせ、聖餐式の本来の意味を汚しました。
そこで、パウロは彼らに問いかけます。 「誰を喜ばせようとしているのか。あなたたちは、『すべてのことが許されている』と言います。確かに、何を食べてもよいかもしれません。
それでも、すべてのことが益になるわけではありません。そして、あなたの行為によって周りの人々が傷ついているのです。」
そして、パウロはこう言いました。
だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(コリント人への手紙第一10:24)
要するに、「自分の益を最優先にするな。また、自分の権利と自由を最も重要なものと考えるな。周りの人々をそれら以上に大切にしなさい。もし、兄弟やノン・クリスチャンのために肉を控える必要があるならば、それを選びなさい。」
なぜでしょうか。
それは、最終的に私たちが喜ばせるべき方はただお一人だからです。それは、自分自身ではありません。ではそれは誰でしょうか。
パウロは明確にその答えを語ります。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(31)
あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているのでしょうか。
