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ピリピ人への手紙

喜ぶことを選ぶ

パウロは福音のためにさまざまな困難を経験したので、もし彼が愚痴をこぼしていたとしても、驚くには値しないでしょう。

もしかすると、弱さの中で、彼はぼやいたこともあったかもしれません。しかし、パウロに関する記録や彼自身の手紙の中で、彼が不平を言ったという描写は見当たりません。むしろ、彼は喜んでいました。

主から与えられる喜びは、本当に不思議なものです。その喜びは状況に左右されるものではなく、神様との関係から生まれる実なのです。だからこそ、どのような状況にあっても、その喜びは私たちの心の奥から湧きあがってきます。

使徒の働き16章には、その一例が描かれています。パウロとシラスは逮捕され、牢に投げ込まれました。彼らが鞭で打たれ、足かせにつながれたとき、彼らはどのように反応したでしょうか。 彼らは賛美歌を歌い、祈りをささげていたのです。

そして、ローマの牢でも、パウロは同じことをしていました。

親衛隊たちは、パウロを見るときっと驚いたことでしょう。多くの囚人たちは、うめいたり、文句を言ったり、絶望して静かに泣いたりしていました。

しかし、親衛隊の交代の時間になって、彼らがパウロを見ると、彼は彼らに明るく挨拶し、賛美歌を歌い、福音を語っていたのです。そのため、親衛隊の誰もが、パウロがただの囚人ではないことをすぐに悟りました(13)。

もしかすると、ある親衛隊たちはクリスチャンになったかもしれません。

さらに、牢の中でパウロが大胆に福音を語ったその模範によって、他のクリスチャンたちもまた、大胆に福音を語り始めました。

中には、「パウロが牢にいるのだから、私が頑張って、代わりに福音を伝えなくては」と思った人たちもいたことでしょう。

残念なことに、他の人々の動機はあまり純粋ではありませんでした。もしかすると、彼らはパウロの群れを奪おうとしていたのかもしれません。

しかし、人々の動機がどうであれ、パウロは喜んでいました。 なぜなら、サタンは福音の広がりを止めようとしましたが、それにもかかわらず福音は進み続けたからです。

少し考えてみてください。もしパウロが常に愚痴をこぼしていたとしたら、どうなっていたでしょうか。もし彼が「自分はかわいそうだ」と思っていたなら、どうなっていたでしょうか。

おそらく、彼は徐々に絶望に陥り、他のクリスチャンたちも落胆していたことでしょう。

けれども、パウロは喜びを選んだので、彼は試練を乗り越え、神様は栄光を受けられました。

あなたはどうでしょうか。どのような苦しみを通過しているでしょうか。どんな状況であっても、あなたはパウロのように「喜ぶこと」を選ぶでしょうか。それとも、「私かわいそうパーティー」を開いてしまうでしょうか。

もし私たちが喜ぶことを選ぶなら、その苦しみを乗り越え、神様は栄光をお受けになります。

しかし、文句ばかり言っていると、あなたは重たい足どりで絶望のぬかるみをさまようことになるでしょう。

あなたは、どちらを選びますか。

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詩篇

神様を恐れる祝福、神様を喜ぶ祝福

恐れと喜び。私たちはふだんその言葉をいっしょに使うことはありません。けれども、詩篇112篇では、詩人はそうします。

彼は神様を恐れる祝福と、神様とその言葉を喜ぶ祝福について話します。

詩人はこう言います。

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

神様を恐れることは、どういう意味でしょうか。

一つ目は、神様の偉大さに畏敬の念を抱くことです。

私たちは神様が私たちよりも偉大な方であり、私たちよりも聖い方であることを理解します。その知識によって、私たちは神様を恐れます。なぜなら、私たちは神様の前に立つことに値しないからです。

むしろ、私たちの罪のため、私たちは死に値します。聖書で神様に会う人々はそう感じました。

しかし、同時に彼らは、彼らに対する神様の愛と憐れみを知ったので、神様を喜び、神様を喜ばせたいと思いました。

詩人はそのような人々が祝福を知ることを言います。

そして、彼らは天の父の性格を取るようになります。彼らも、恵み深く、情け深くなり、義の道を歩みます。彼らも気前がよく、自由に人に貸し、義によって行います。(4-5)

その結果は?

彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。(6-8)

多くの人々は自分自身だけを信頼するので、将来について心配します。どうしてでしょうか。なぜなら、将来をコントロールできないからです。だから、悪い便りを聞くと、彼らはパニックになります。

しかし、神様に信頼したら、悪い時が来ても、私たちは安心できるし、将来を恐れません。

どうしてでしょうか。

なぜなら、私たちは全てをコントロールできる方の手に任せるからです。そして、人々が私たちを攻めても、神様は私たちに勝利を与えてくださいます。

詩人は悪者についてこう言います。

悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。(10)

その一方、神様に信頼する人は周りの人々を祝福します。それに、神様は私たちに栄光を与えてくださいます。(9)

だから、毎日この聖く、良く、素晴らしい神を恐れ、喜びましょう。

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詩篇

私たちの王を喜ぶ

詩篇97篇も、私たちの王の偉大さを喜びます。

詩人は叫びます。

主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97:1)

「地は、小躍りせよ。」

完全な世では、すべての国民は神様を私たちの王として喜ぶでしょう。

完全な世では、彼らは義と裁きが神様の王座の基であることを喜ぶでしょう。(2)

また、彼らは神様の力を喜ぶでしょう。(3-5)

また、神様の栄光を喜ぶでしょう。(6)

しかし今は、この世の人々はそうしません。むしろ、彼らの偶像にしがみついて、お金や、セックスや力を追い求めます。だから、ある日、彼らは恥を見ます。(7)

それでは、私たちは何を喜ぶでしょうか。私たちの王の偉大さを喜ぶでしょうか。それとも恥を与えるものを喜ぶでしょうか。

もし、神様を喜ぶなら、詩人は私たちに言います。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(10)

あなたは神様を愛しながら、悪を抱くことができません。だから、神様を愛するなら、あなたは神様が憎むものを知って、その物を捨てなくてはなりません。

そのような人に関して、詩人は言います。

主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(10-11)

そして、詩人はこの詩篇をまとめます。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12)

あなたは何を喜ぶでしょうか。