昨日、私たちは、神様の裁きへの間違った態度について話しました。パウロの時代でも現代でも、人々は同じようなことを言います。とはいえ、当然ながらその適用には少し違いがあります。
例えば、パウロの時代には、ある人々がこう言いました。
善をもたらすために悪を行おう。(ローマ人への手紙3:8)
パウロの時代には、次のような考え方がありました。
「もし私たちが悪を行えば、周囲の人々は人間と神様の違いをより明確に理解し、神様の良さが際立つ。それならば、悪いことをすべきだ。」
これは極めて歪んだ考え方であり、パウロはその人々を厳しく叱責しました。
しかし、現代においても似たような思考が見られます。つまり、「嘘も方便」という考え方や、「目的は手段を正当化する」という論理です。
要するに、「私は悪いことをしていると認識しているが、その動機は善である」という思考です。
例えば、「ノンクリスチャンと結婚してはいけないことは理解しているが、結婚すれば、その人がクリスチャンになるかもしれない。」という考え方です。
また、「嘘をついてはいけないことは理解しているが、真実を話せば相手を傷つけてしまう。」
最近、アメリカの大学で大きなスキャンダルが発生しました。子供を大学に入学させるために、33人が賄賂を使い、子供の試験結果を不正に操作しました。
彼らの言い訳は、「私たちは子供を愛しており、彼らの最善を望んでいます。」というものです。
けれども、神様はそのような考え方を裁かれます。神様は結果だけでなく、その過程にも目を向けられます。もし私たちが手段を軽視しようとすれば、その選択はやがて深刻な結果を招くでしょう。
ユダヤ人と他のアラブ人の問題について少し考えてみてください。なぜこのような対立が生じているのでしょうか。何千年も前、アブラハムは「目的は手段を正当化する」と考えました。
神様はアブラハムに約束されました。「私はあなたに子を与えます。その子を通して、全世界は祝福されます。」
しかし、何年経ってもアブラハムにはまだ子供がいませんでした。そこで、彼は神様を助けようと考えました。彼は妻サライの女奴隷と関係を持ち、子供が生まれました。
実は、それはサライの勧めでした。また、その時代の文化において、この行為は特に異例なものではありませんでした。むしろ、多くの人がアブラハムの決断に賛同したことでしょう。
ところが、それは神様の御心ではありませんでした。そして、現在に至るまで、ハガルの子孫(アラブ人)はサライの子孫(ユダヤ人)と争い続けています。
もしアブラハムがこの誤った決断をしなかったならば、何千年にもわたるこの問題は存在しなかったかもしれません。
あなたはどうでしょうか。あなたは信仰によって生きていますか。神様の道を歩み、神様があなたを祝福されることを信じていますか。
それとも、「良い目的」のために悪いことをしても構わないと考え、言い訳をしてしまうでしょうか。
神様の目には、たとえ善意の動機であっても、不正な手段が許されることはありません。
