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ヨハネの黙示録

裁きが振りかかっても悔い改めない心

14章では、神様を拒絶し、獣の刻印を受けた人々が永遠の裁きを受けることを読みました。以前にも述べたように、永遠の裁きという概念に抵抗を感じる人々は少なくありません。

9章では、その永遠の裁きの理由を見ました。ある人々は長らく神様に逆らい、悔い改める心を持とうとしません。どれほど厳しい裁きが下されても、彼らはどうしても悔い改めたくないのです。むしろ、神様をますます呪うのです。

今日の箇所では、再びそのような人々が登場します。

16章で、神様は抑えることなく裁きを地上に注がれます。封印の裁きやラッパの裁きがなされたときには、神様は裁きに制限を設けられました。(封印の裁きでは被造物の4分の1が、ラッパの裁きでは3分の1が打たれました。)

今回は、全世界が打たれます。

獣の刻印を受けたすべての人々には、ひどく悪性な腫れものが生じます。(黙示録16:2)

海は死者の血のようになり、海の中のすべての生き物が死に絶えます。(3節)

神の民を殺していた彼らに対し、川と水の源の水は血へと変わります。(4-7節)

そして、

第四の御使いが鉢の中身を太陽に注いだ。すると、太陽は人々を火で焼くことを許された。(黙示録16:8)

私の意見ですが、おそらくこの描写が意味するのは、私たちを太陽の紫外線から守るオゾン層が著しく薄くなり、その結果、人々が焼かれるということではないでしょうか。

さて、人々はそのような状況にどのように反応するのでしょうか。

こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。(9)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、その裁きがもう少し続けば、最終的に人々は悔い改めるのでは?」

けれども、次に、モーセの時代のエジプトのように、全世界が闇に包まれます。また、人々は自分の腫れもののために激しい苦しみにさいなまれます。(10-11a)

それでも、彼らは、

天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。(11b)

「でも、彼らはきっと自分の頑固さを捨てて、悔い改めるだろう?決して悔い改めないほどの頑固な人はいないのでは?」

しかし、大河ユーフラテスの水が涸れ、東から来る王たちが集まり、神様に戦いを挑もうとします。(12)

悪霊たちが現れ、奇跡的なしるしを行って、王たちに神様に勝てるという希望を抱かせようとします。彼らはハルマゲドンに集結し、神の激しい怒りが込められた最後の鉢が空中に注がれます。

その時、稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、世界の歴史の中で最も大きな地震が起こります。

すべての国々の都市が崩れ去り、神様の激しい憤りは、御前に逆らう帝国に注がれます。島々は沈み、山々は崩れ、巨大な雹が天から人々の上に降り注ぎます。(20-21)

その結果は何でしょうか。人々は悔い改めたのでしょうか。

いいえ、悔い改めませんでした。

この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。(21)

私のポイントは何でしょうか。悔い改めなければ、人々は地獄から出られません。

しかし、私たちが今日の箇所から学んだのは、自分の心を固くし続けると、どれほど苦しみを味わっても、決して悔い改めることはないという現実です。

地獄にいる人々は、まさにそのような者たちです。

ですから、もしあなたが今なお神様に背を向けているなら、どうか今のうちに悔い改めてください。神様は、あなたが地獄に入ることを望んではおられません。

あなたがその罰を受けることがないように、神様はご自身のひとり子であるイエス様をこの世に送られました。そして十字架の上で、イエス様はあなたの罰を身代わりとして受けてくださいました。

あなたがすべきことはただ一つ。イエス様を、自分の主、そして救い主として受け入れることです。

神様は、あなたにこう語りかけておられます。

わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか。。。

彼らがその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。。。

だから立ち返って、生きよ。(エゼキエル書18:23、32)

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ヨハネの黙示録

最後の警告

このブログで私は何回も言いましたが、神様は忍耐強い方です。でも、その忍耐は永遠に続くわけではありません。

今日の箇所では、その忍耐が尽きるところです。

6節で、一人の御使いが中天を飛びながら、あらゆる国民、部族、言語、民族に最後の福音の宣言をします。彼は大声でこう言います。

神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。(黙示録14:7)

それが文字通りの御使いかどうかは、ちょっとわかりません。もしかしたら、その御使いは、福音を全世界に宣べ伝えて、すべての民族に証しするクリスチャンたちを象徴しているのかもしれません(マタイ24:14)。

でも、文字通りの御使いから伝えられるにしろ、普通のクリスチャンたちから伝えられるにしろ、とにかく、人々は福音を聞く最後の機会を得ます。

でも、その福音の宣言には、警告が付いています。

「今、悔い改めて、神様に向かわなくてはなりません。神様の忍耐が尽きてしまって、裁きが迫っています。だから今のうちに神様を恐れなさい。神様に栄光を帰せよ。神様を礼拝しなさい。」

その後、さらに二人の御使いたちが、もっと至急な警告を宣言します。

倒れた、倒れた、大バビロンが。御怒りを招く淫行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた都が。(黙示録14:8)

その警告は後の出来事への伏線となります。バビロンはかつて偉大な帝国でした。でも、その帝国はいろいろな偽の神々を礼拝し、真の神に背を向け、この悪の世界と霊的な姦淫を犯しました。

ヨハネは、たしかバビロンをローマの象徴と見なしたと思われます。私たちにとっても、バビロンとローマは神なき社会の象徴です。その社会から反キリストが現れます。

でも、御使いが叫んだのは、バビロンがすぐに倒れるということではなく、むしろ、バビロンがすでに倒れたということです。つまり、バビロンはまだ生きているように見えても、実際にはもう死んでいるのです。そしていずれ、すべての人々がそれを悟るようになります。

そして、第三の御使いが最後の警告を宣言します。

もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。

彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。(9-11)

言い換えると、あなたは中立的な立場をとることができません。あなたは神様の味方かサタンの味方を選ばなくてはいけません。あなたは神様を礼拝しなくてはならないか、獣を礼拝しなくてはなりません。

でも、もし獣を礼拝すると、神様のすべての怒りがあなたに注がれます。

多くの人々は地獄という概念を嫌います。彼らは、愛の神が人々を永遠の苦しみの場所に送ることを信じられません。でも、その御使いの言葉は、はっきりしています。そういった人々には昼も夜も安らぎがありません。むしろ、彼らは永遠に苦しみます。

なぜ彼らは地獄で苦しまなくてはならないのでしょうか。

第一の理由は、私たちは永遠の存在として造られたということです。疑問は、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに存在するかです。

第二の理由は、人々が神様を自分の王として受け入れない場合、神様から遠く離れなくてはならないということです。なぜなら、彼らは神様の近くにいたくないからです。でも、神様から離れること自体が地獄なのです。

あなたはどう考えるでしょうか。この世の情勢を見てみましょう。私たちは、神様を自分の王として認めない世界に生きようとしてきました。その結果は何でしょうか。殺人、レイプ、テロ、さまざまな悪。

私たちの実験は大失敗です。

さらに、神様が今もここにおられ、人々の人生の中で働いておられるため、この世にはまだ良いものが残っています。愛、親切さ、赦し。

でも、もし神様がまったくここにおられないとしたら、この世界はどれほど恐ろしい場所になるでしょうか。そんな世界こそが地獄です。

でも、私たちは地獄に行く必要はありません。十字架において、イエス様は私たちのために神様の怒りを受けました。イエス様は神の怒りの杯を飲まれたので、私たちはその怒りを受ける必要がありません。

しかし、イエス様を拒絶すれば、あなた自身がその杯から飲まなくてはなりません。

あなたはどうされますか。

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ペテロの手紙第二

必ず来る滅び

時々私たちは、どうして神様がこの世にこれほど多くの悪を許されるのか疑問に思うことがあります。また、どうして神様が今、悪人たちを裁かれないのか疑問に思うこともあります。

ペテロは偽教師の運命について話す中で、その疑問に答えます。彼は次のように言いました。

彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。(ペテロの手紙第二2:3)

簡単に言うと、神様が悪に対して何もしないように見えたり、私たちが正義が決して行われないと感じたりしても、裁きは必ず来るのです。彼らの裁きが迫っており、彼らの滅びは確実です。

そして、ペテロは三つの例を挙げます。

最初の例は、ある天使たちが罪を犯したときに、神様が彼らを地獄に投げ入れられたことです。

それは案外めずらしい裁きです。多くの人々が考えることとは違い、地獄にいる悪霊はごく少数なのです。

実は、彼ら自身も地獄に行きたくはありません。そこで神様は、とりあえず彼らがこの世にとどまることを許されました。 そのため、今もなお彼らはこの世に多くの問題をもたらしているのです。

しかしどうやら、神様がある悪霊たちを地獄に投げ入れられるほどに、彼らの罪が深刻だったようです。そこで、彼らは最終的な裁きを待っています。(私はユダの手紙について話すとき、この話をもっと詳しく説明します。)

二つ目の例はノアの話です。ノアの時代には、「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾いていました。」(創世記6:5)

箱舟を作っている間に、ノアは、人々に悔い改めるように促しました。けれども、彼らは悔い改めませんでした。

ノアがその箱舟を作っている間、神様は彼らを裁かれませんでした。 ところが、ある日、大洪水が降りかかり、彼らは滅びました。 一方で、ノアとその家族は救われました。

三つ目の例はソドムとゴモラの話です。彼らは本当に罪深い人々で、自分たちの罪に耽っていました。そのため、ロトは二人の見知らぬ人々を見て、彼らの安否を心配しました。つまり、ロトは、彼らが暴行されることを心配していたのです。

残念ながら、ロトの隣人たちはそうしようとしました。それゆえ、神様はソドムとゴモラを裁き、滅ぼされました。けれども、神様はロトを救われました。

ペテロはこれら三つの話をまとめて、次のように言いました。

主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(9)

以前の記事で私は言いましたが、ギリシャ語では「誘惑」と「試練」は同じ言葉です。そのため、ある英訳では、「敬虔な者たちを試練から救い出し」と書かれています。

とにかく、神様は私たちを試練から救い出されると書かれていますが、私たちが決して試練に直面しないというわけではありません。私たちも苦しい時に直面します。

それでも、神様は私たちと共におられ、私たちを救い出されます。そして最終的に、私たちは神様と共に天国にいるのです。

一方で、神様は悪人たちを裁かれます。その悪い天使たちのように、その者たちは暗闇の縄目につながれ、裁きの日まで閉じ込められています。今なお、彼らは罰を受けています。

地獄と永遠の罰という概念を好む人は誰もいないと思います。私も好きではありません。それでも、それは現実です。

最終的な裁きは、キリストがこの世を千年間統治した後まで起こりません。けれども、その裁きまで、神様から離れて死んだ人たちは罰を受けています。

そして、裁きの日に彼らは火の池に投げ込まれます。(黙示録20:15)

悲しいことですが、サタンのように、彼らは昼も夜も、永遠に苦しみを受けます。(黙示録20:10)

それは切ない話ですが、それは真実です。また、それは正義です。

正義は必ず行われます。それは裁きの希望であり、同時に裁きの恐れでもあります。

イエス様を拒絶する者に対して、裁きは恐ろしいことです。

しかし、イエス様はご自身を信じる者たちに、こう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)

あなたは裁きの日について考えると、恐れるのでしょうか。それとも、希望を持っているのでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第二

なぜ多くの人々は滅びてしまうのでしょうか

第1章において、パウロは、かなり不穏なことを語ります。彼はテサロニケの人々にこう言いました。

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え。。。

主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。(テサロニケ人への手紙第二1:6,8-9)

地獄とは何かを知りたいなら、第9節がその核心を要約しています。それは――人々が永遠に、主の御前から退けられることです。

「永遠の滅び」と聞くと、「それは意識のない状態なのでは」と考える人もいるでしょう。けれども、聖書は明確に語ります。滅びた人にも意識はあります。

そして、神様が命と喜びと愛の源であるならば、その神様から切り離された状態こそが、まさに地獄なのです。

では、なぜ人々は神様から退けられるのでしょうか。

それについて、今日の箇所が答えを示しています。

第2章では、パウロはテサロニケの人々が抱いていた誤解を正します。パウロの以前の手紙を読んで、一部の人々は「すでにイエス様が帰って来られた」と思い、「自分たちはその再臨を見逃してしまったのでは」と不安になっていました。

しかし、パウロは彼らを励まします。「あなたがたはイエス様を見逃してはいません。イエス様が来られるとき、すべての人が必ずその姿を見ます。イエス様が来られるとき、あなたは必ず知るのです。」

そして、パウロは将来に何が起こるのかを説明します。

イエス様が来られる前に、反キリストが現れます。彼は神様に逆らって自らを高く上げ、ついには「自分こそ神だ」と宣言するのです。

実際、パウロの時代から――もっと前から――私たちはこの世界に働く不法の力を見てきました。その力の背後にいるのは、私たちを滅ぼしたいと願う偽りの父です。しかし今のところ、聖霊様がサタンを引き止めておられます。

けれども、やがてそのときが来て、聖霊様が退かれると、サタンはこの世を自由に支配するようになります。

反キリストが現れると、偽りのしるしや不思議なわざを行い、 多くの人々を欺きます。人々は彼を本当のキリストだと信じてしまうのです。

その結果、彼らは滅びに至ります。(3〜10節)

では、なぜ彼らは滅びなくてはならないのでしょうか。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。(テサロニケ人への手紙第二2:10-11)

これこそが、人が地獄で滅びる主な理由です。神様は彼らに福音の真理を伝えてくださいました。たとえ福音を直接聞いたことがなくても、彼らには創造物のあかしもあり、自分の良心のあかしもあるのです。(ローマ書1章)

それでも彼らは、救いへと導くその真理を愛することを拒みました。むしろ、自分の罪を喜んだのです。

多くの人々は、福音を信じられないわけではありません。むしろ、福音の真理を信じたくないのです。なぜなら、それを受け入れるならば、悔い改めなくてはならないからです。自分の罪を捨てなくてはならないのです。しかし、彼らはそれを望まないのです。

それゆえに神様は彼らに言われます。「あなたは真理を受け入れたくないのですか。では、この惑わす力の偽りを飲み込みなさい。」

彼らはそのとおりにし、永遠に自分の罪を抱き締め、神様を呪い、決して悔い改めることはありません。だからこそ、彼らは地獄で滅びるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは真理を持っています。では、どう応答しますか。その真理を受け入れて、救われるでしょうか。それとも、自分の罪にしがみつき、滅びへと進むのでしょうか。

主のみことばを、しっかり心に刻みましょう。

わたしは生きている。。。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。

立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

あなたには、いのちを選ぶことができます。では、なぜ死を選ぼうとするのですか。あなたはどう応答するでしょうか。

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ローマ人への手紙

神様の選びの神秘(4)

予定説について話す際によく出る質問は次のようなものです。

「あなたは、神様が誰を天国へ導くかをあらかじめ定めると主張します。ということは、神様は誰が地獄に行くかも、あらかじめ定めているのではないでしょうか。」

前回の記事で、この疑問についてある程度触れました。

ある意味では、神様は誰が地獄に行くかをあらかじめ定めておられます。しかし、誤解しないでください。神様は決して、こう言われることはありません。

「あなたは地獄に行け。たとえ悔い改めようとも、イエス様を信じようとしてもかまわない。私はすでにあなたの運命を決めているのだから。」

むしろ、神様はこう語られます。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。私は正義を執行しなくてはなりません。」

それでも、神様はその宣告を猶予され、その人が純粋に自分の意志で悔い改めるかどうかを待っておられます。その人が自らの意志のみで神様を求め始めるかどうかを待っておられます。

悲しいことに、自分の意志だけで神様を求める者は誰もいません。

だからこそ、私はこう信じます。人々は自らの自由意志によって地獄に行きます。しかし、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいました。私たちは皆、神様に従うかどうかを選ぶことができます。

ところが、もし神様が私たちの心の中で働かれず、私たちをそのままにされていたなら、私たちは皆、神様に反抗し、自分の道を進んでいくでしょう。例外は一切ありません。それが人類の歴史なのです。

そのため、神様は決断をしなくてはなりませんでした。神様が人間をそのままにされ、すべての人が滅びることを許されることもできました。あるいは、神様が働かれ、ある人々を救われることもできました。

そして、神様は最終的に、ある人々を救うことを選ばれました。

それゆえ、パウロはこう語りました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。

「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(ローマ人への手紙9:29)

ソドムとゴモラの人々は、自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばれず、彼らが値する裁きを与えられました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

同様に、イスラエル人たちも自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。しかし、神様は彼らを憐れまれ、彼らが値しないものを与えてくださいました。それは、命に至る恵みです。

では、ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちは何が違ったのでしょうか。イスラエル人たちはソドムとゴモラの人々よりも優れた者だったのでしょうか。

いいえ、そうではありません。違いはただ一つ、神様の選びです。

神様はイスラエル人を選ばれました。一方で、神様はソドムとゴモラの人々を選ばれませんでした。

もう一度言います。それこそが、恵みの不思議さです。私たちは、他の人々より優れた者ではありません。それでも、神様は私たちを救うことを選ばれました。

それゆえ、私たちは神様の選びによって救われたのです。その一方、人々が地獄に行くのだとすれば、それは自らの選択によるものです。

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ローマ人への手紙

呪われた考え方

この箇所では、私たちは神様に対する呪われた考え方を目にします。このような考え方を持つならば、人は確実に滅びへと向かうことでしょう。

正直に言えば、そのような考え方を持つ人がいることが信じられません。彼らはこう言いました。

「私が罪を犯すことで、むしろ神様は喜ぶべきではないでしょうか。なぜなら、私の悪によって、神様の善がより明らかになるからです。

神様はご自身の良さを示したいと思っているはずです。もしそうならば、なぜ神様は私を裁かれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙3:5-8)

このような考え方はあまりにも愚かであるため、パウロはすぐに反論しました。

「いったい何を言っているのですか。神様は決して罪を喜ばれることはありません。もし神様が罪を喜ばれるのであれば、どうしてこの罪深い世界を裁くことができるでしょうか。」(6)

また、別の人々はこう言いました。

「私が罪を犯すことで、善がもたらされるのではないでしょうか。私の罪によって神様の良さがさらに明らかになり、神様の栄光が現れるのです。ならば、私はもっと罪を犯したほうが良いでしょう。」

パウロの答えは極めて簡潔であり、率直でした。

そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。(8)

もちろん、そのように考える人は、もはや誰もいないと思います。けれども、今なお似たことを口にする人はいます。今日は一つの議論を取り上げ、明日はもう一つの議論を考察します。

ある人はこう言います。「神が御怒りを下すのは不義ではないでしょうか。」(5)

現代の人々は、パウロの時代の人々とは異なる方法でこの議論を用います。彼らはこう言います。

「もし誰かが福音を聞いたことがないなら、どうして神様はその人を罰するのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

しかし、パウロはこの手紙の第一章で、この議論に反論しました。つまり、福音を直接聞いていない人であっても、神様の存在を示す証拠を持っているということです。

その証拠とは、被造物、彼らの内なる律法、そして彼らの良心です。それでも、彼らはそれらの証拠を持っていても、神様を求めようとはしません。

彼らは、自分が知らないことによって裁かれるのではなく、自分が知っていることによって裁かれるのです。したがって、彼らへの裁きは公平なものなのです。

また、多くの人々はこう言います。「神様はご自身を拒む人々を地獄へと行かせることがあるのでしょうか。彼らは本当に永遠に苦しまなければならないのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

正直に言えば、私は地獄について語るのが好きではありません。すべての人々が最終的に天国へ行くと信じたい気持ちがあります。しかし、聖書はそのようには教えていません。イエス様ご自身もそう教えられませんでした。

地獄について、私は二つのことを述べたいと思います。

第一に、人々が地獄へ行く場合、実は神様は彼らの願いを叶えておられるのです。つまり、神様を拒絶する人は、なるべく神様から遠く離れ、自分の思うままに生きたいと願います。

けれども、彼らが最終的に気づくのは、神様こそが愛、喜び、命、そしてすべての良いものの源であるということです。

したがって、神様から完全に離れた存在とは、すべての良いものからも離れた存在となるのです。それが何を意味するでしょうか。それこそが地獄なのです。

二つ目は、人々が地獄へ行く必要がないように、神様がイエス様をこの世に送られたことです。イエス様は十字架で私たちの罪のために死なれました。そして、救いの働きを完全に成し遂げられました。

私たちに求められることは、その働きを信じ、永遠のいのちという賜物を受け取ることだけです。

では、どのようにしてその賜物を受け取ることができるでしょうか。神様にこう祈るなら、その賜物を受けることができます。

天のお父様、今まで私は自分の道を歩み、人生を混乱させてきました。どうか私を赦してください。

イエス様が私の罪のために死に、よみがえられたことを信じます。だからこそ、これから私はあなたに信頼します。私の心の中で働いてくださり、毎日私がイエス様のようになれるよう助けてください。

この選択をすれば、私たちは真のいのちを知ることができます。救いの道は決して難しいものではありません。難しいのは自分の道を捨てることなのです。

C.S.ルイスはこう述べています。

最終的に、人は神様に向かって「あなたの御心が行われるように」と言うか、それとも神様が彼らに向かって「あなたの心が行われるように」と言われるかのどちらかである。

あなたはどう選択するでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ22章

王子の婚宴のたとえ話:神様の国はいること

この話では、イエス様は私たちがイエス様を拒絶する危険性について警告し続けておられます。

このたとえ話では、ある王が自分の息子のために結婚の披露宴を催し、多くの人々を招待しました。ところが、その日が来たとき、招待されたお客さんたちは様々な理由をつけて来ませんでした。

王はもう一度彼らにしもべを遣わしましたが、彼らは気にもかけず、自分の用事であちこちへ行きました。

さらに、ある人々はそのしもべたちを捕まえて、侮辱し、殺してしまいました。

この話は、以前のたとえ話と同じようにイスラエルを描写しています。

とはいえ、それだけではなく、この話は福音に対する多くの人々の反応も描写しています。

神様はご自身の国に入るように私たちを招待します。神様は私たちのためにすべてを整えてくださいました。私たちがしなければならないことは、ただその招待に応えることだけです。

それでも、多くの人々はその招待を軽んじて、自分の道を行き続けます。さらに、ある人々は神様のメッセンジャーを侮辱し、迫害します。

その結果はどうなるのでしょうか?裁きです。死です。

しかし、この話には驚くべきどんでん返しもあります。王は他の人々を招待し、彼らが来た後に披露宴が始まりました。

ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は傍若無人で、その王の要求を無視し、普通の服を着ていました。そのため、その王は彼のところに行き、こう言いました。

友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。(マタイの福音書22:12)

その人には良い言い訳がなかったので、彼は「人が泣いて歯ぎしりする暗闇」に放り出されました。(13)

このように、多くの人々は神様の招待を聞き、神の国に入りたいと願います。けれども、彼らは神様の条件を認めず、自分の方法で入ろうとします。

では、神様の条件とは何でしょうか。それについては、ヨハネが私たちに教えてくれます。

その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

要するに、神の国に入りたいのであれば、イエス様を着る必要があるということです(ガラテヤ3:27)。

「イエス様を着る」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様をあなたの主として受け入れることです。

そうすることで、神様が私たちを見るとき、私たちの罪をではなく、キリストの義を見るのです。なぜなら、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。

しかし、多くの人々はその条件を受け入れることを拒む傾向があります。彼らは自分の方法で神の国に入ろうとします。けれども、それでは神様の招待とイエス様の十字架の働きを軽んじることになります。

私たちはそのような行動を取るべきではありません。もしそうするなら、私たちは神様を侮辱することになるのです。

だからこそ、あなたには選択があります。あなたは神様の条件を受け入れ、神の国に入ることができます。または、自分の方法を選び、地獄に向かうことになります。他に選択肢はありません。

あなたはどうしますか。神様の条件を受け入れて、神様に近づこうとしますか。それとも、自分の方法で神様のもとに来ようとしますか。

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ルカの福音書 ルカ16章

金持ちとラザロ:地獄の現実さ

地獄。それは決して楽しい話題ではありません。

けれども、イエス様は地獄について教えられました。この箇所では、イエス様は地獄の存在を示し、それがどのような場所であるかを説明されています。

第一のポイントは、地獄が苦しみの場所であるということです。そこでは、人々は意識のある状態で苦しんでいます。

多くの人は、死んだら意識がなくなると考えます。しかし、それは誤った認識です。地獄では、人々は自分の状況をはっきりと理解し、苦しみ続けます。

第二のポイントは、悪者と義人の間に大きな淵があることです。そして、その淵を渡ることはできません。一度地獄に入ると、そこから抜け出すことはできません。もはや悔い改める機会は失われているのです。

さらに、地獄にいる人々は、おそらく悔い改めたいとは思っていないでしょう。この話では、金持ちは苦しみながら憐れみを求めましたが、悔い改めることはありませんでした。

第三のポイントは、地獄に行きたいと思う人などいないということです。また、地獄にいる人々は、自分の愛する者が地獄に来ることを望みません。

時々、人々はこう言います。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親や祖父母がすでに亡くなっているからです。もし彼らが天国に行けなかったのなら、私も行きたくありません。」

けれども、この金持ちの言葉に耳を傾けてみてください。

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。(ルカの福音書16:27-28)

アブラハムは、「それは無理だ」と答えました。なぜなら、たとえ神様がそれを許されたとしても、その金持ちの兄弟たちはすでに神様のみ言葉を拒絶しているため、たとえ誰かが復活して彼らに警告したとしても、彼らは信じないでしょう。

皮肉なことに、別のラザロがイエス様の力によって復活しました。イエス様はこれによって、自分が神の子であることを証明されました。

ところが、イエス様の敵はその出来事を目の当たりにしてもイエス様を拒絶し、さらにはイエス様とラザロを殺そうと企てたのです。

とはいえ、私がここで強調したいのは、その金持ちは自分の家族が地獄に来ることを望まなかったという点です。

もしあなたが、家族や友人が地獄にいるかもしれないと考え、それゆえにイエス様の救いを拒んでいるのなら、その金持ちの言葉を覚えていてください。あなたの家族や友人は、あなたが地獄に行くことを望んでいません。

では、私たちはどうすれば地獄を避けることができるのでしょうか。

それには、イエス様を信じることが必要です。イエス様があなたの罪のために死なれ、そしてよみがえられたことを信じる必要があります。さらに、イエス様を主と救い主として受け入れなくてはなりません。

「神様が愛なら、どうして人々を地獄に送るのか」と疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、神様から離れた人生そのものが地獄なのです。もしあなたが命、愛、喜び、平和の源から遠ざかるなら、それこそが地獄ではないでしょうか。

神様が人々を地獄に送るのではなく、人々自身が地獄への道を選んでいるのです。

つまり、彼らは命の意味を与える方に背を向けているのです。その結果、彼らの心には絶望しか残りません。それこそが地獄なのです。

あなたはどうしますか。命の源へと向かうでしょうか。それとも、命の源に背を向けるでしょうか。それはあなた自身の選択です。

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マタイの福音書 マタイ13章

網のたとえ話:迫っている裁き

福音書の中で、イエス様は天国について語られましたが、実際には天国よりも地獄について多く教えられました。この箇所では、イエス様は迫り来る裁きについて語られています。

以前にも述べたように、この世の悪を見るとき、私たちはしばしばフラストレーションを感じ、「なぜ神様が何もしないのか」と疑問に思うことがあります。

けれども、この箇所では、イエス様はその日が必ず来ると語られます。すべての人々は、たとえ死者の魂であっても、あるいはまだ生きている者であっても、神様の前に立ち、裁きを受けます。

その日、神様は悪者と正しい者を分けられます。正しい者は報いを受け、永遠に神様とともにいることができます。

その一方、悪者について、イエス様は次のように語られます。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書13:49ー50)

なぜイエス様はこのことを教えられたのでしょうか。その一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないということです。この邪悪な世界の中で、私たちにはそのような希望が必要だと思います。

二つ目の理由は、私たちに警告を与えるためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないということです。

神様は誰も滅びることを望まれません。しかし、人々があえて神様とその福音を拒絶した場合、神様は彼らの意志を尊重されます。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きることになります。

けれども、その日が来ると、彼らは神様から離れていることが、どれほど惨めな状態かを悟るでしょう。だからこそ、彼らは永遠に絶望して苦しむことになります。

多くの人々は、神様が彼らの喜びを奪おうとしていると思い込み、神様から逃げます。しかし、実際には、神様から離れると、本当の喜びは全く存在しません。

ですから、この邪悪な世界を見るとき、心に留めておきましょう。裁きの日は迫っています。あなたは準備ができていますか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もしあなた自身が準備できているなら、自分にこう問いかけましょう。「私が愛する人々は準備ができているだろうか。」

もし彼らが準備できていないなら、どうしても彼らに福音を伝えましょう。

地獄は現実です。イエス様はそう教えられました。あなたは信じていますか。そして、信じているならば、福音をあなたが愛する人々に伝えているでしょうか。

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箴言

地獄に行く人に警告しないと

この箇所では、ソロモンは本当に鋭い言葉を言います。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。

あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。

この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

毎日、人々は地獄に行っています。永遠の死に行っています。彼らは虐殺されます。だから、あなたは何をしていますか。

地獄というのは嫌な話題なので、多くの人々は、そのことについて話したがりません。けれども、地獄について話さなくても、その問題は無くなりません。そして、私たちが人々に警告しないと、神様はその責任を私たちに負わせられます。

もちろん、私たちは無理矢理、誰かの道を彼の意志に背いて変えさせることはできません。それは私たちの責任ではありません。私たちは人間の心を変えられないからです。

とはいえ、神様は私たちに、彼らに警告するように命じられました。

神様は「私は彼らが地獄に行くことを知らなかった」と言う言い訳を受け入れられません。

多くの人は愛する人たちに関して、自分自身にこう言います。「彼らがイエス様を信じなくても、きっと天国に行くだろう。なぜなら、彼らは良い人だから。」

なぜ彼らはそう言うのでしょうか。多分、彼らは自分の家族や友達に真実を言いたがらないからです。彼らは拒絶されることを怖がるからです。また、彼らは愛する人が真実を聞くと怒られることを怖がります。

しかし、心の中で、そのクリスチャンは真実を知っています。そして、神様も、そのクリスチャンの心をよく知っておられます。私たちは神様から何も隠すことができません。

だから、神様が預言者エゼキエルに言われたように、私たちにも言われます。

「人の子よ。わたしはあなたをあなたの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしがあなたのお父さんや、お母さんや、兄弟たちや、友達に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、彼らに悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、彼らは自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが彼らに警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17-19)

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ヨナ書

憐みを喜ぶ神

ヨナはニネベに神様からのメッセージを伝えた時、どのような態度だったでしょうか。

時折、アメリカでゲイのパレードや集会の際に、クリスチャンが「あなたは地獄に行く」と書かれた看板を持つ光景を見ることがあります。

ヨナもそのような態度を持っていたのでしょうか。彼が「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と伝えた時、心の中で「地獄に行け」と思っていたのかもしれません。

興味深い点として、ある学者はヨナのメッセージに「悔い改めなさい」という言葉が含まれていないことに注目しています。本当にヨナがその言葉を言わなかったのかは分かりませんが、4章を読むとその可能性を考えることができるでしょう。

また、ヨナの父の名前はアミタイで、「真実」を意味します。ヨナは「真実」の子であったかもしれませんが、「憐れみ」の子ではなかったのです。

そのため、ニネベの人々が悔い改めると、ヨナは深く失望しました。彼は「その悔い改めは遅すぎたのではないか。神様はまだ彼らを罰するかもしれない」とさえ思ったかもしれません。

それでヨナはニネベを出て、座り込みながら、神様がソドムとゴモラを滅ぼしたようにニネベを滅ぼすのを待ち望みました。

けれども、時が経つにつれ、ヨナの心には苦々しい思いが増していきました。彼は次第に理解したのです。「神様はニネベの人々に憐れみを与えてくださる。」

神様はユニークな方法でヨナに憐れみについて教えられました。

神様はヨナのために一本のとうごまを備えられました。それは奇跡的に早く成長し、ヨナはその陰で大いに喜びました。

ところが、一匹の虫が現れ、そのとうごまを噛んだため、とうごまはすぐに枯れてしまいました。

その後、非常に暑い天候が続いたことで、ヨナは神様に叫びました。

私は生きているより死んだほうがましだ。(ヨナ書4:8)

神様はヨナに訊かれました。

このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。(9a)

ヨナはこう答えました。

私が死ぬほど怒るのは当然のことです。(9b)

神様はそれを聞いて答えられました。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(10-11)

つまり、「あなたはそのとうごまを造るために何もしていないにもかかわらず、それをそんなに大切に思っていますね。

一方、ニネベには十二万以上の人々がいて、彼らは私や私の心について何も知らず、彼らの罪のために滅びなければならないと考えていました。

しかし、私はこのニネベの人々を造りました。彼らは私の大切な被造物ですから、私は彼らを深く愛しています。どうしてあなたは私の思いを理解できないのでしょうか。」

ヨナはヨナ書の著者であるため、神様の御心を最終的に理解したのかもしれません。

けれども、私たちはどうでしょうか。

ヨナのように、ある人々が地獄に行くことを喜ぶでしょうか。それとも、神様のように、彼らのために涙を流し、彼らの救いのために尽力するでしょうか。

彼らが悔い改めたとき、私たちは怒るでしょうか。それとも喜ぶでしょうか。

中には、ヨナのように真実だけを喜ぶ人もいます。その結果、彼らは「あなたは地獄に行く」と叫びながら喜びます。

しかし、神様はそのような方ではありません。神様は憐れみを喜ばれるのです。だから、私たちも憐れみを喜ぶ者であるべきです。

あなたはそのようにできるでしょうか。