カテゴリー
ペテロの手紙第二

私たちの信仰の基礎

私たちの信仰の基礎は何でしょうか。なぜ私たちは、クリスチャンたちが信じていることを信じるのでしょうか。

基本的に、私たちの信仰は神様とその性質に基づいています。また、私たちの信仰はある程度、私たちの経験にも基づいています。すなわち、私たちは神様が慈しみ深い方であることを味わい、悟るようになったからです。

しかし難しいのは、神様は目に見えないということです。私たちは神様に触れることも、御声を耳で聞くこともできません。

では、どうして私たちが神様との関係を実際に持っていると確信できるのでしょうか。それがただの錯覚ではないと、どうして確信できるのでしょうか。

世界中には多くの人々が霊的な経験を主張しながらも、クリスチャンの教えを否定しています。

では、どうして私たちは自分たちの経験が彼らの経験よりも優れていると確信できるのでしょうか。また、彼らの経験とは異なり、私たちの経験が単なる感情や神話に基づくものではなく、真理に基づいていると確信できるのでしょうか。

ペテロはこれらの質問に答えています。彼はこう言いました。

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。(ペテロの手紙第二1:16)

多くの人々は、イエス様が実在していたことを否定します。別の人々は、イエス様の存在を認めても、私たちがイエス様が実際に何を行い、何を語ったのかを知ることはできないと主張します。むしろ、彼らはイエス様に関する話が周囲の国々の神話に基づいていると主張し、それを証明しようと懸命に努めます。

けれども、ペテロはそのような主張を否定します。

「私たちは自分の想像によってイエス様の話を作りませんでした。私たちは実際にイエス様と共にいました。私たちはイエス様を見ました。山で、イエス様の姿が変えられたとき、私たちは自分の目でその栄光を見、自分の耳で神様の御声を聞きました。」(16ー18)

さらに、ペテロは次のように語ります。

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。(19)

もしかすると、ペテロは単に預言者たちの言葉について話しているのかもしれませんが、神様の言葉全体について話している可能性もあります。

いずれにせよ、ペテロのポイントはこうです――私たちは自分の経験だけでなく、神様のみ言葉によって、私たちの経験の背後に真実があると知ることができます。そのため、私たちの信仰は、単なる経験ではなく、神様のみ言葉にしっかりと基づいているのです。

神様のみ言葉を通して、私たちは神様が他の人々の人生にどのように働かれたのかを知ることができます。そのため、私たちは彼らの経験を自分自身の経験と比べ、その類似点を見つけることができます。

さらに、私たちは預言者たちの言葉がどのように成就されたのかを見ることができます。特に、イエス様に関する預言がどのように実現したのかを理解することができます。

しかし、私たちはどのように聖書の言葉が真実であることを確信できるのでしょうか。

考古学の発見により、聖書に記されている歴史的事実が証明されることもあります。

とはいえ、神様に関する聖書の言葉が正しいことを、どのように知ることができるのでしょうか。また、神様の言葉が正しく伝えられていることを、どのようにして確信できるのでしょうか。

ペテロは、この質問にも答えています。

ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(20-21)

つまり、人々が聖書を書いたとき、自分の思いや意見だけを書いたのではありません。むしろ、聖霊様が彼らの思いと言葉を導いてくださったのです。

ただ、誤解しないでください。多くの場合、神様は自分の言葉を直接口頭で伝えたわけではありません。

確かにそのような場合もありましたが、多くの場合、神様はそれぞれの人々の人格や教育、話し方を用いて、彼らが自分の言葉でメッセージを私たちに伝えることを許されたのです。

そのため、神様は羊飼い、漁師、王、祭司、取税人、そして医者など、さまざまな背景を持つ人々を用いました。聖書には約40人の著者が関わりました。彼らは三つの大陸から来ており、三つの異なる言語を使用しました。

さらに、聖書が完成するまでに約1500年もの年月がかかりました。それにもかかわらず、彼らの証しは一貫しており、神様とその御業に関するメッセージは統一されています。

だからこそ、私たちは確信を持っています。

そういうわけで、ペテロはこう言いました。

夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(19b)

「夜が明ける」とは、イエス様がこの世に戻られることを指しています。「明けの明星」とは、イエス様ご自身を指します。

したがって、ペテロが伝えたかったのは、この世の本当の光であるイエス様が戻られるその日まで、イエス様が残してくださった光に注意を払うべきだということです。

この暗い世において、神様の言葉は私たちの足元を照らす灯火です。その言葉を通して、私たちは神様がどのような方であるのか、そしてどのようにして神様を喜ばせることができるのかを知ることができます。この言葉こそが私たちの信仰の基盤なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰はただ自分の経験に基づいているのでしょうか。それとも、あなたの信仰は神様のみ言葉に基づいているのでしょうか。

カテゴリー
ヘブル人への手紙

信仰の土台

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(へブル人への手紙11:1-2)

この箇所を見ると、多くの人々はこの言葉こそが信仰の定義だと考えます。

確かにそうかもしれません。けれども、私たちは「何を信じるか」について、どれだけ深く考えているでしょうか。もし私たちが信頼するものが実際には頼りにならないものであれば、私たちはどうして望んでいることを確信できるのでしょうか。

もし約束する方に、その約束を守る力がないとしたら、目に見えないものをどうして信頼できるでしょうか。

だからこそ、私たちの信仰は初めから終わりまで、神様に基づいているのです。

神様はどのような方でしょうか。神様は本当に存在しているのでしょうか。

仮に存在しているとしても、私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。私たちは、そんな神様に信頼してもいいのでしょうか。神様はご自身の約束を本当に守ってくださるのでしょうか。神様には、その約束を守る力があるのでしょうか。

今日の箇所では、手紙の著者がまさにこのことに触れています。彼はこう語ります。

神に近づく者は、神がおられること。。。を、信じなければならないのです。(6)

この根本的な真理こそが、私たちの信仰の土台です。つまり、神様が実在されるということです。

けれども、それを信じていたとしても、神様は私たちのことを本当に愛しておられるのでしょうか。もしかすると、衝動的な思いつきで私たちを造り、その後、私たちのことを忘れてしまわれたのでしょうか。

この問いに対しても、手紙の著者は明確に答えています。

神に近づく者は。。。神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(6)

言い換えれば、神様は私たち一人ひとりに心を留めておられるということです。神様は私たちの行いに目を留めてくださいます。そして、私たちが神様を求めるなら、神様は私たちに報いてくださるのです。

しかし、神様が報いてくださりたいと思われても、果たしてその力があるのでしょうか。

そこで、私たちは3節にその答えを見出します。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(3)

もし神様が、御自身の命令によって、すべてのものを目に見えないものから造られたのなら、神様には何でもおできになるはずです。

だから、この箇所において、私たちは信仰の土台を見ることになります。神様は確かに存在しておられます。神様は私たちを愛しておられます。神様は、ご自身が約束されたことを実現する力を持っておられます。

それゆえ、残る問いはただ一つです。私たちは心からその真理を信じるでしょうか。神様に信頼を置くでしょうか。

腕の良い職人が、もっとも頑丈な木を使って椅子を作ったとしても、その椅子に信頼を置かなければ、人は決してそこに座ろうとしません。

それと同じように、神様は確かに存在し、私たちを愛しておられ、約束を果たす力を持っておられます。私たちがそれを信じようとしまいと、それは変わらない現実なのです。

しかし、それを信じなければ、私たちは神様に信頼を置こうとはしないでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはその真理を信じるでしょうか。あなたがこの問いにどう応えるかによって、あなたの神様との関係、そしてあなたの人生が形づくられていくのです。

次回の記事で、このテーマをさらに深めていきます。

カテゴリー
使徒の働き

ただの人間

この箇所を読むと、罪に陥った多くの有名な牧師の名前が思い浮かびます。かつて多くの人々が彼らを尊敬していましたが、やがてその尊敬を失ってしまいました。

そのとき、クリスチャンたちは、彼らがただの人間であることを改めて思い知らされたのです。

それでも、私たちが牧師を特別な存在として見なすのは容易なことです。おそらく、神様の姿を直接見ることができないため、牧師を模範とし、彼らに目を向け、従おうとしてしまうのでしょう。

けれども、最終的に彼らもただの人間なのです。

あなたがリーダーであっても、ただの教会のメンバーであっても、私たち皆はこのことを常に心に留めておかなければなりません。

パウロはそのことを深く認識していました。

パウロとバルナバがリステラを訪れたとき、彼らはイエス様のみ名によってある人を癒しました。リステラの群衆はその奇跡を目にすると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようとしました。

なぜでしょうか。

それは、彼らの神話によれば、かつてゼウスとヘルメスが人間の姿で人々の間に現れたものの、多くの者が彼らを歓迎せず、その結果、神々の怒りによって罰せられたからです。しかし、一組の夫婦が彼らを受け入れ、その善意によって祝福されたという伝承がありました。

リステラの人々はこの話を覚えており、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。けれども、それを見たパウロとバルナバは、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。

そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(使徒の働き14:15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会でも、似た問題に直面しました。そこでは、コリントのクリスチャンたちが、どのリーダーが最も偉大なのかを議論していました。しかし、パウロは彼らにこう問いかけました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

たとえ最も敬虔な人であっても、祭り上げることは危険です。なぜなら、彼らもまた、ただの人間だからです。

人間は失敗することがあります。

人間は私たちを落胆させることがあります。

もし私たちの信仰の基盤が神様ではなく、一人の人間に置かれているなら、その人が私たちを失望させたとき、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロはその危険を私たちに警告しています。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3:10-11)

あなたの信仰の基盤は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

イエス様だけが、私たちが真に信頼できる揺るぎない基盤です。イエス様に信頼するなら、あなたは決して失望することがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

悪い小作人のたとえ話:イエスを拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めない場合にどうなるかを警告されました。

このたとえ話はイザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様がご自分の造られたぶどう園について話されています。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を象徴しています。

その話でも、イエス様の話でも、その主人は受け取るべきぶどうを受け取れませんでした。けれども、イエス様の話では、特に農夫たちを責めておられます。

もちろん、その農夫たちは、預言者たちやイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表しています。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。

リーダーたちがその責務を果たしていれば、イスラエルは霊的な実を結んでいたでしょう。ところが、彼らは堕落し、その責任を果たしませんでした。

なぜでしょうか。それは、神様を重んじず、自分自身のために生きたからです。彼らはお金や権力、人々からの栄誉に執着していました。

だからこそ、イスラエルの民が実を結ばなかったのは当然のことでした。

そこで、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何度も預言者たちを遣わされました。預言者たちはイスラエル人たちに警告し、訓戒しました。

しかし、そのリーダーたちは幾度となく預言者たちを拒絶し、迫害しました。さらには、預言者たちを殺してしまうことさえありました。

最後に、神様は御自身のひとり子を送ってくださいました。けれども、そのリーダーたちは御子を殺そうと計画していたのです。

だから、イエス様がユダヤ人たちに「主人がその農夫たちをどうすると思いますか?」と尋ねられると、彼らはこう答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。そこで彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

ところが、イエス様は次のように答えられました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味されたのは何でしょうか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。

要の石とは、建物の最初に据えられる石を指します。その建物は要の石の周りに建てられます。この石は非常に重要であり、この石が少しでも歪むと、建物全体が歪んでしまいます。

同じように、神の御国、そして私たちの人生もイエス様の周りに建てられなければなりません。そうしないと、すべては歪んでしまいます。

しかし、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したため、神の国は彼らが軽蔑していた人々に与えられました。つまり、収税人や売春婦、異邦人に与えられたのです。なぜなら、彼らはイエス様を救い主として受け入れたからです。

一方で、そのリーダーたちは裁かれ、すべてを失ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は何の上に建てられているでしょうか。お金でしょうか。財産でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。それともイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたに命を与えてくださいました。あなた自身も、あなたが持つものすべても神様に属しています。そして、神様はその御国のために、あなたに霊的な実を求めておられます。

しかし、自分のためだけに生きているなら、その実を結ぶことはできません。そして、ユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すれば、裁きを受け、すべてを失ってしまいます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ16章

教会が立つ基礎

これは本当に印象的な箇所ですので、もう一度見てみましょう。

ペテロがイエス様に向かって「あなたはキリストです」と告白した後、イエス様は彼を称賛されました。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイの福音書16:17-19)

それは本当に印象的な言葉ですが、その言葉が意味するものとは何でしょうか。そして、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

まず最初に、神様がご自身を現わされると救いがもたらされるということです。

人々は神様を自ら見出すことができないため、神様がご自身とその真理を明らかにされなければ、私たちは神様のことを知ることはできません。そのため、救いはまさに恵みから来るものなのです。

カトリック教徒たちはペテロを尊敬し、ペテロの権威によってイエス様が教会を建てられたと教えています。

けれども、この箇所では、イエス様はそのように教えられたわけではありません。「ペテロ」という名前は「小さい石」という意味を持っていますが、イエス様は「岩の上に教会を建てる」と言われました。

ペテロ自身もその言葉を忘れず、こう語っています。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:4-6)

ペテロによれば、教会は何の石の上に立つでしょうか。それはイエス様です。

私たちクリスチャンは何者でしょうか。私たちは生ける石です。そして、神様は私たちを用いて、ご自身の家、つまりご自身の神殿を建てておられます。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きのゆえに、神様の祭司となりました。

私たちには祭司が要りません。なぜなら、私たち自身が神様の祭司だからです。私たちは確信をもって、大胆に天の父の御もとに近づくことができます。

教会がイエス様の上に建てられたので、ハデスの門もそれには打ち勝つことができません。サタンはずっと教会を滅ぼそうとしましたが、教会は今もなお立っており、イエス様が戻られるまで立ち続けるでしょう。

イエス様はペテロに特別な権威を与えられたでしょうか。おそらくそうされたでしょう。しかし、その時、ペテロとほかの弟子たちはイエス様の言葉を完全に理解していなかったと思います。

イエス様が天に戻られた後、ペテロの最初のメッセージを通して、多くのユダヤ人がクリスチャンとなりました。(使徒の働き2章)

また、異邦人もペテロを通して福音を聞き、初めてクリスチャンになりました。(使徒の働き10–11)

つまり、ペテロは天の御国の鍵を使ったことで、ユダヤ人と異邦人が初めて神の国の門に入ることができました。

さらに、その鍵を用いて、ペテロとヤコブは、ユダヤ人の儀式的な律法および食事に関するルールのほとんどを解きましたが、教会の平和を守るためにいくつかの律法を守るよう指示しました。(使徒の働き15章)

それでも、ペテロが最初の法王であり、他の人々がペテロの権威と立場を継いだとは言えません。イエス様は、そのようなことを決して言われませんでした。

実は、ある程度、イエス様の言葉はすべてのクリスチャンに当てはまります。

神様の祭司として、私たち皆は天の御国の鍵を受けています。そして、私たちが福音を伝えると、その福音を聞いて信じる人々に天の国の門が開かれます。

また、私たちは信じる人々に対して、彼らの罪が恵みによって赦されることを宣言する権威を持っています。したがって、彼らは自分の働きによって救いを得ようとする考え方から解放されます。

ですから、その鍵を使いましょう。そうすれば、彼らも私たちがいただいた救いを受けることができるのです。