カテゴリー
マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカ21章

私たちの神殿が堕落すると

この箇所は、聖書の中でも最も難解な箇所の一つです。

もしかすると、あなたはこの箇所のすべての解釈を求めているかもしれません。正直なところ、私自身もその答えをすべて知りたいと思っています。

ですので残念ながら、このブログにすべての答えが含まれているわけではありません。

そこで、いつものように私は明確な点に焦点を当てたいと思います。また、この箇所が私たちの人生とどのように関係しているかについて考えてみたいと思います。

さて、今日はイエス様がなぜこのような話を始められたのかを見てみましょう。イエス様がパリサイ人たちや律法学者たちと議論された後、イエス様の弟子たちは神殿を見て、こう言いました。

先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。(マルコ13:1)

もちろん、外見を見ると、神殿は非常に美しい建物でした。けれども、イエス様はすぐに彼らの熱意に冷水を浴びせました。

この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。(マルコ13:2)

イエス様が言われた通り、神殿は崩れました。西暦70年に、神殿は攻撃を受け、火事が起こり、屋根から金が溶け出して壁のひびに入り込んでしまいました。そこで、将軍はその金を取り出すために神殿の石を一つずつ崩すように命じました。

どうして神様はそのようなことを許されたのでしょうか。それは、その神殿の外見は美しかったものの、その内部には多くの堕落があったからです。

もちろん、神殿では良いことも起こりましたが、堕落があまりにも多かったため、最終的にその神殿は立ち続けることができませんでした。神殿には貪欲もありました(だからイエス様は業者たちを追い出されました)。

さらに、「私たちは神様に仕える」と言った祭司たちでさえ、神様に出会った時に神様を認識しませんでした。イエス様が彼らの中におられたにもかかわらず、彼らはイエス様を神様として認めず、むしろイエス様を殺そうと考えました。

私たちクリスチャンは神の神殿です。それでも、これまでどれほど多くの有名なクリスチャンや、そのミニストリーが堕落によって崩れるのを見てきたでしょうか。彼らは崩れるだけでなく、そのミニストリーも完全に崩壊してしまいます。

しかし、彼らを裁く前に、私たち自身の神殿を見直さなければなりません。私たちの神殿には、どのようなものがあるでしょうか。

堕落があるでしょうか。貪欲があるでしょうか。偽善があるでしょうか。嫉妬があるでしょうか。プライドがあるでしょうか。

これらはエルサレムの神殿にも存在していました。それらは、あなたの神殿にも入り込んでいるでしょうか。

また、他の要因も私たちの神殿を汚すことがあります。情欲、苦々しい思い、相手を許さない心は私たちの神殿を汚します。

一方で、愛や憐れみといったものが私たちの神殿にあるべきですが、それらはあなたの神殿に存在しているでしょうか。

周囲の人々が私たちの神殿を見たとき、それを素晴らしい神殿だと思うかもしれません。私たちはクリスチャンの模範に見えるかもしれません。

けれども、私たちの神殿に堕落があるなら、最終的にその神殿は崩れ、堕落は露わになります。

あなたの神殿には、何が存在しているでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ13章

目を覚ます必要

マタイの福音書では、私たちはこの個所と同じイエス様のたとえを見ます。(多分、これは別の時ですけど)。

でも、この個所を読んだ時、私は前回このたとえを正しく解釈したかどうと疑問に思いました。

もしかしたら、イエス様は、同じたとえでいろんなことを教えていたかもしれません。(例えば、マタイ5:23-26ルカ12:54-59。)

とにかく、このたとえの別の解釈について話そうと思います。イエス様はこう言いました。

神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。(ルカの福音書13:20-21)

旧約聖書では、パン種は罪と不潔の描写でした。

例えば、過越の祭の食事を食べたとき、イスラエル人たちはパン種が入っていないパンを食べなくてはなりませんでした。彼らはそのパンを裂いて食べました。そして、そのパンは、彼らの体に命を与えました。

どうして彼らはパン種のないパンを食べたでしょうか。

一つの理由は、彼らがエジプトから逃れたとき、速く行かなくてはならなかったことです。そしてイスラエル人たちはパン種のないパンをすぐに焼くことができました。

でも、もう一つの理由がありました。イエス様は、自分自身を「命のパン」だと呼びました。そして最後の晩餐で、イエス様は過越の祭のパンを取り、裂いて、弟子たちにこう言いました。

これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。(ルカ22:19)

イエス様は、自分の罪のために十字架で死にませんでした。そのパンのように、イエス様の心にはパン種、つまり、罪や不潔がありませんでした。

でも私たちの罪のためにイエス様の体は裂かれました。イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。

そして、私たちがその命のパンを食べると、つまり、イエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れると、イエス様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

でも私の要点に戻りましょう。パン種は普通、罪と不潔の描写です。でもこのたとえ話で、イエス様は、神の国をパンに広がっているパン種と比べます。どうしてでしょうか。

答えはちょっと怖いものです。神様の民の中で堕落が広がる可能性があるということですから。

アメリカの教会を見ると、それがすぐにわかると思います。例えば、監督教会と長老教会はゲイの結婚を認め始めました。

それは道徳的な堕落です。

でも、教会の歴史で、私たちはキリストに関する教えの堕落をも見ることができます。

だから教会では、多くの人々は処女懐胎(つまり、イエス様の父はヨセフではなく、神でした)や、イエス様の復活や、イエス様が神であることを否定します。それでも、彼は「私はクリスチャンだ」と言い張ります。

どうして、彼らはそう言えるでしょうか。彼らは聖書をも否定するから。もしクリスチャンたちが聖書を否定するなら、堕落は簡単に教会に入ることができます。

イエス様はそのことについて警告しました。

サタンは麦の中に毒麦を蒔きます。その毒麦の一つの種類は聖書に反対する教えです。私たちが注意しないと、そんな教えは教会の中に広がってしまいます。(マタイ13:24-30、36-43)。

だからイエス様は私たちに警告します。たくさんの人々は「イエス様を知っている」と主張するけど、実はイエス様を全然知りません。(24-28)

だからイエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

私の要点は何でしょうか。目を覚ましましょう。

あなたの牧師の教えに注意を払いましょう。ポッドキャストで聞く説教に慎重になりましょう。クリスチャンの本を読むときも、注意深く判断しましょう。

もしその教えが聖書に合うなら、その教えを受け入れ、従いましょう。しかし、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨てなければなりません。

そうしなければ、堕落はあなたの心に容易に入り込んでしまいます。

だから、パウロはこう記しました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)