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コリント人への手紙第一

御国のために権利を譲ること

聖書を読む際、私たちは時に文脈に注意を払わず、その著者の意図を見逃してしまうことがあります。

そこで、この記事では8-10章をまとめて概観し、後の別の記事で各章をより詳しく見ていきたいと思います。

もちろん、各章ごとに興味深い学びがありますが、パウロの主旨を見落とすことは避けたいと考えています。

では、8-10章におけるパウロの主旨とは何でしょうか。

それは、「私たちの権利ではなく、神の御国こそが最も重要である」ということです。したがって、時には神の御国のために、自らの権利を手放さなければならないのです。

8章ですでに私たちは一つの例を見ました。パウロによれば、私たちは偶像に捧げられた食べ物を食べる権利を持っています。けれども、パウロはこう語りました。

「もし私がその肉を食べることで、私の兄弟が罪に陥るなら、私はその肉を食べません。さらに、彼が罪に陥らないように、私は今後決して肉を食べません。」(コリント人への手紙第一8:13)

そして、パウロはコリントの人々が抱くであろう疑問を予測します。「しかし、私は食べる権利を持っている。それなのに、なぜ私の権利を手放さなければならないのか。」

パウロは12節で一つの理由を示します。それは、もし私たちの行為によって兄弟が罪に陥るなら、その行為自体が罪となるということです。

それだけではなく、パウロは自らの人生を例として示しました。使徒として、彼にはさまざまな権利がありましたが、それらの権利を行使することを主張しませんでした。

たとえば、パウロには結婚して妻と共に宣教旅行をする権利がありました。しかし、彼は結婚すらしませんでした。

また、福音を伝える働きに対して報酬を受け取る権利もありましたが、彼はその権利を用いませんでした。

実際、モーセの律法やキリストの言葉によれば、私たちはそのような働き人に対して経済的支援をするべきです。けれども、パウロはその報酬を断りました。(9:1-14)

では、なぜパウロは自らの権利を主張しなかったのでしょうか。それは、おそらく彼が貧しい人々に福音を伝えていたからです。

もし彼が彼らから金銭を受け取っていたら、彼らはさらに経済的に苦しんだことでしょう。さらに、パウロは「貧しい者を利用している」と言われることを避けたかったのかもしれません。

もう一つの可能性として、パウロは「福音を利用して金銭を得ている」と非難されることを避けたかったのかもしれません。

そのような非難は、福音の普及を妨げることになったでしょう。

さらに、パウロは福音のために払った他の犠牲についても語りました。

モーセの律法のもとにあるユダヤ人たちと共にいる際、パウロはユダヤ人のように振る舞いました。たとえば、モーセの律法に従い、豚肉や貝を食べませんでした。

しかし、異邦人と共に食事をするときには、パウロは何でも食べました。

また、傷つきやすい良心を持つ人々と共に食事をする際には、偶像に捧げられた肉を口にしませんでした。

多くのコリントの人々にとって、パウロの慎重さは過剰に思えたかもしれません。おそらく、彼らは「パウロが権利を譲るのは、やりすぎだ」と考えたでしょう。

それでも、パウロはその生き方をマラソンの訓練に例えました。マラソンの準備をするために、ランナーは時に好きな食べ物を控えたり、好みの活動を制限しなければなりません。

そうしなければ、報酬を得ることはできません。

同様に、もし私たちがキリストとその御国のためではなく、自分のために生きるなら、報酬を受けることはないでしょう。

だから、10章でパウロはこう語りました。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。(23-24)

また、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。(31-33)

だから、自分の権利について考えるとき、自らに問いかける必要があります。

「私は何のために生きているのか。だれのために生きているのか。自分のためなのか。それとも、神様とその御国のためなのか。」

神様のために生きるなら、最後には報いを受けることができます。けれども、自分のために生きるなら、あなたの業績は消え去り、神様からの報いを受けることはありません。

あなたは何のために、そしてだれのために生きているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ20章

でも、それは不公平だよ

私の個人的な意見ですが、もしかすると、このたとえ話はペテロに対するイエス様の反応だったのかもしれません。ペテロはこう言いました。

私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

多分イエス様はこの話を通してペテロを励ますと同時に、警告を与えたいと思われたのかもしれません。

この話では、ある主人が自分のぶどう園で働く者たちを雇いました。最初に雇われた労働者たちは主人と賃金を交渉しました(一デナリは通常の一日の賃金でした)。

けれども、その後に雇われた労働者たちは具体的な賃金を交渉しませんでした。むしろ、主人はこう言いました。

あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。(マタイの福音書20:4)

夕方になると、主人は労働者たちに賃金を支払い始めました。彼は一番最後に雇われた人々に最初に支払い、一番最初に雇われた人々には最後に支払いました。主人は後に雇われた人々に一デナリを渡しました。

そのため、最初に雇われた人々が来たとき、彼らはもっと多く支払われるだろうと期待しました。ところが、主人は彼らにも一デナリを渡しました。その結果、彼らは不満を漏らしました。

それは当然の反応と言えるかもしれません。 一部の労働者はわずか一時間しか働かなかったのに、一デナリを受け取りました。 それなのに、丸一日働いた人々も同じく一デナリしか受け取らなかったのです。

しかし、次に注目してください。主人の答えはこうでした。

友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。

自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私は気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。(13-15)

要するに、最初に雇われた労働者たちは騙されたとは言えません。彼らは交渉した賃金を正当に受け取ったのです。

それでは、なぜ彼らは怒ったのでしょうか。それは、主人が後に雇われた労働者に非常に気前よく振る舞ったからです。

イエス様が伝えたかったポイントは何でしょうか。

「私に従うことで何を得られるかを気にしてはいけません。また、自分が当然受け取るべきものに執着してもいけません。そして、自分自身を他の人々と比べることもやめなさい。

あなたがどれだけ犠牲を払ったか、他の人がどれだけ犠牲を払ったか、それを気にする必要はありません。あなたの報いは確実に与えられます。

けれども実は、神様は人にふさわしい報いを与えるよりも、ふさわしくない報いを喜んで与える方なのです。

もし、自分が当然受け取るべき報いだけに執着しすぎるならば、神様はそれを与えるかもしれませんが、それだけしか与えられないでしょう。

しかし、周りの人が何をしているかに気を取られず、自分が受け取るべき報いに執着しないのであれば、あなたは想像以上に神様からの祝福を受けることができるでしょう。」

どうでしょうか。あなたはいつも自分自身を他の人々と比べているでしょうか。あるいは、「どうして自分のほうが神様に仕えているのに、他の人々のほうが神様から祝福を受けているのだろうか」と疑問に思ったことはありませんか。

心に留めておきましょう。恵みとは、私たちが値するかどうかには全く関係のないものです。

恵みとは、私たちが神様からの報いに値しないにもかかわらず、神様が私たちに愛といつくしみを注いでくださることを指します。

実際、私たちに値するものは死です。なぜなら、私たち全員が罪を犯したからです。

ですから、自分が値するものについて過度に気にすることはやめましょう。

むしろ、自分が値しない恵みを受け取ったことに心から喜びましょう。つまり、永遠の命、喜び、平和、そして愛を豊かに受け取ったことを感謝しましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章

偉い?取るに足りない?

イエス様がこの話をどのようにまとめられるかは、本当に興味深いですね。イエス様は弟子たちに「あなたを受け入れる者は、私を受け入れる」と言われました。

そのように、福音を拒絶する人は、イエス様をも拒絶しているのです。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は辛いかもしれません。特に、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶はなおさら痛いかもしれません。

しかし、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しているのです。

とはいえ、イエス様はこの原則を別の方法でも用いられます。

つまり、預言者を受け入れる者は、預言者が受ける報いを受けます。また、義人を受け入れる者は、義人が受ける報いを受けます。

おそらくイエス様は、弟子たちのニーズに応える人々について話されているのだと思います。そのような人々が弟子たちの食料や必要なものを整えるなら、彼らは弟子たちと同じ報いを受けることになります。

では、どうしてイエス様は弟子たちにこのことを語られたのでしょうか?おそらく、イエス様は弟子たちに次のような教えを伝えたかったのだと思います。

「もちろん、あなたの仕事は非常に重要です。それでも、他の人々を見下してはいけません。その人々も神様の働きをしているのです。そして、あなたのニーズを整える人々も、あなたと同じ名誉を受けるに値します。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれませんが、他の人々は弟子たちの奉仕を支える働きをしています。その人々がいなければ、弟子たちは自分の使命を果たすことができなかったでしょう。

私たちの多くは、牧師や教師、ワーシップリーダーのような目立つ役割の人々を特別視することがあります。しかし、背景で働く人々に目を向けることが少ないのではないでしょうか。

たとえば、礼拝のために椅子を並べたり、マイクやスピーカーをセットしたりする人々もいます。彼らも同様に栄誉を受けるべき存在です。

そして裁きの日、神様は彼らにも牧師やワーシップリーダーたちと同じ報いを与えてくださるのです。

要するに、神様がその人々を称賛されるならば、私たちも彼らを褒めたたえるべきです。

そして、イエス様はさらにこう言われました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイの福音書10:42)

それを言われたとき、イエス様は小さな子供を抱いていたのかもしれません。または、イエス様が弟子たちを「小さいもの」と呼ばれた可能性もあります。

もしイエス様が小さな子供について話されていたのなら、覚えていてください。神様にとって、キリストに属する小さな子供たちを世話することは本当に大切な働きです。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話されていたのなら、彼らも「小さいもの」です。だからこそ、あなたがリーダーの立場にいるなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」だと思いますか?覚えていてください。

神様にとって、ほかの人々が行う神の国の仕事も非常に重要です。神様は、人々の前で行われる仕事も、裏方で行われる仕事も同じように称賛されます。だから、背景で働く人々にも敬意を示しましょう。

あなたは「取るに足りない」立場だと思っていますか?覚えていてください。あなたが忠実に仕えるなら、神様はあなたにも「偉い人」と同じ報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち全てが貴い存在であり、忠実な者に豊かな報いを与えてくださるからです。

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マラキ書

虚しい?

神様に従う私たちの信仰の旅路において、失望を感じる時もあります。そのような時に注意しなければ、私たちは苦々しくなり、皮肉な態度を取ってしまうかもしれません。

イスラエルの民も同じようになりました。彼らは次のように言いました。

神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。(マラキ書3:14-15)

彼らは、神様が求められたことを行っていたと思ったかもしれません。彼らは安息日に主の宮に行き、いけにえを捧げ、モーセの律法によって定められた祭りを祝いました。

けれども、彼らは神様の祝福を見ることができませんでした。むしろ、神様に従わない人々が繁栄するのを目の当たりにしました。

だから、彼らはこう言いました。「神様に従うことに何の利益があるだろうか。神様に仕えることは虚しい。」

しかし、彼らの問題の一部は、さまざまな宗教的な行いをしても、それらを心から行っていなかったということです。以前、私たちが読んだように、彼らは足のなえたものや病気の動物をいけにえとして捧げました。

それに、神様のすべての命令に従うのではなく、どの命令に従うかを選んでいました。だから、十一献金をきちんと捧げませんでしたし、多くの指導者たちは偶像礼拝する外国人と結婚してしまいました。

それにもかかわらず、彼らは図々しくこう言いました。「あなたが命じた通りに私たちはしたのに、なぜあなたは私たちを祝福してくださらないのですか。」

私たちも同じようなことをするでしょうか。正しいことをしているつもりでも、それを心からしていない。「神様に従っている」と言いながら、実際にはどの命令に従うかを自分で選んでいます。

それでも、「なぜ神様が私を祝福してくださらないのでしょうか」と不満を口にします。

とはいえ、時には、私たちが本当に心から神様に従っているのに、まだ神様の祝福を感じられないこともあります。だから、私たちは「どうして?」と尋ねます。その時、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――

わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(16-18)

つまり、「私はあなたを見て思い出します。私に忠実に仕える者は、私の宝となります。裁きの日には、彼らは恥じることなく私の前に立つことができます。その一方、不実な者は裁かれるでしょう。」

私たちががっかりしてしまう時には、どうすれば良いでしょうか。苦々しく皮肉な者にならないためには、何をすべきでしょうか。

おそらく、最も重要なことは、クリスチャンとの交わりを大切にすることです。あなたの感情を兄弟姉妹と分かち合いましょう。フラストレーションをシェアし、彼らの意見に耳を傾けてみてください。

彼らは、あなたの不実な部分を指摘するかもしれません。また、彼らはあなたを励ますかもしれません。そして、神様の忠実さや将来の報いを思い出させてくれるかもしれません。

けれども、私たちの苦々しく皮肉な思いが、私たちを神様から引き離すことのないようにしましょう。むしろ、イエスに目を留め、最後まで従い続けましょう。

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エゼキエル書

隠れたものを見ておられる方

時々私たちは「神様は私たちが何をしているかご存じだろうか」と考えます。また、「神様は私のすることを気にされるだろうか」と思うことがあります。

けれども、この箇所で神様はこう言われます。「もちろん、私はあなたの行動に気づき、それを気にしています。」

この幻で、エゼキエルはエルサレムに連れて行かれ、そこで多くの罪を目撃しました。

彼は、主の宮の内庭で偶像を見ました。また、70人の長老たちが偶像を礼拝しているのを見ました。

エゼキエルが宮の門に戻ると、彼は地力と雨の神タンムズの前で泣いている女性たちを見ました。そして、太陽を礼拝している男性たちも目撃しました。

どうして彼らはそのような罪を犯したのでしょうか。それは、彼らがこう言ったからです。

主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。(エゼキエル書8:12)

だから、神様は彼らを裁かれました。

しかし、神様は隠れた悪だけを見ておられるのではありません。神様はご自身を愛する者たちのことも見ておられます。それゆえ、神様はある男(おそらく天使)にこう言われました。

町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。(エゼキエル書9:4)

そして神様はエルサレムの人々を裁かれましたが、しるしが付けられた人々を救い出されました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。他の人々が気づいていなくても、神様は私たちのすべての行動をご存じです。

私たちの罪は神様から隠れることがありません。そのため、いつか神様はすべての罪人を裁かれるのです。

とはいえ、もしあなたが神様に従い、この世の悪を見て心を痛めたとしても、失望しないでください。

この世では一時的に悪が支配しているように見えるかもしれませんが、最終的には神様が正義によってこの世を裁かれるのです。

その時、神様は私たちを覚えてくださり、救い出してくださいます。

さらに、神様は私たちに報いを与えてくださるのです。

主よ。あなたがすべてを見てくださることを感謝します。あなたの目から隠れるものは何一つありません。

私が人と一緒にいる時も、一人でいる時も、私の人生が清いものとなりますように。私がどこにいても、だれと一緒にいても、私の人生があなたを喜ばせるものとなりますように。アーメン。