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マタイの福音書のデボーション

喜んでついていく?ふさわしい報酬を求める?

そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』

彼らは出かけて行った。 (マタイの福音書20:4~5)

家の主人は最初の労働者たちにも同じことを言ったのでしょうか。

その労働者たちは、「いや、私たちは自分たちがふさわしいと思う報酬を求めます」と言い張ったのでしょうか。

たぶんそうだったのでしょう。

ペテロも同じような考え方を持っていたようです。(マタイの福音書19:27)

ヤコブとヨハネも同じでした。(マタイの福音書20:21)

一方で、癒された盲人たちは、イエス様の良さを味わい、ふさわしい報酬を求めることなく、喜んでイエス様について行きました。(マタイの福音書20:35)

多くの主人たちは、後者の労働者たちと同じような契約を結んだなら、彼らを酷使したことでしょう。(マタイの福音書20:4~7)

しかし、この主人は気前がよく、良い主人でした。(15節の「気前がいい」という表現は、通常「良い」と訳されます。)

だから、私が自問しているのはこうです。「私はどのような神に仕えていると思っているのだろうか。」

神様が気前よく、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて与えてくださる方だと、本当に思っているのだろうか。

癒された盲人たちのように、私は神様の良さを味わい、喜んでイエス様について行くのだろうか。

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クリスマスの12日

クリスマス8日目

神はレアの願いを聞かれたので、彼女は身ごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。

そこでレアは、「私が女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」と言って、その子をイッサカルと名づけた。(創世記30:17-18)

ヘブライ語では、「イッサカル」は「報酬」を意味する言葉に聞こえます。

レアが女奴隷をヤコブに与えたことによって、神様が本当にレアに報酬を与えられたのかは、疑わしいところです。

しかし、それは罪の問題です。罪は、私たちに良いものを与えていると主張し、私たちを欺こうとします。罪は、「神様があなたに報酬を与えてくださっている」とさえ主張することがあります。

それよりも、イエス様にある神の無償の賜物を受け取る方が、はるかに良いのではないでしょうか。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)