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ルカの福音書のデボーション

私たちは塩気をなくする

塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書14:34-35)

イエス様の弟子として、私たちの「塩気」をなくすことは、簡単なことです。つまり、イエス様のためにこの世に触れる力を失うのは、簡単なのです。

例えば、人が作った宗教的なルールに集中しすぎて、人への神様の愛と憐れみを忘れてしまうと、私たちは塩気をなくしてしまいます。また、イエス様の教えを拒むと、私たちは塩気をなくしてしまいます。(1-6)

恩返しすることができない人たちに謙遜に仕えず、むしろ、誇りのゆえに自分の大切さを周りの人々に示そうとするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(7-14)

神様のことを当たり前のものだと思い、神様よりも家族やほかのものを大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(15-20,26)

イエス様に従うことよりも、自分の人生や夢、快楽、経済的な安全性を大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(26-27,33)

イエス様、私の塩気をなくしたくありません。時々、私はあなたの言葉に耳を閉じてしまいます。あなたとその御国よりもほかのものを大事にするときもあります。どうか赦してください。

あなたの心を私に与えてください。つまり、私の周りの人々への、愛深く憐れみ深い心を与えてください。

私の目を開いてください。私があなたの栄光と憐れみを見ることができますように。私への愛を見ることができますように。

それらを見るとき、あなたへの愛と、あなたに仕える気持ちが再びかき立てられますように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書 ルカ14章

代価を計算する?

大勢の群衆がイエス様についていったとき、イエス様は彼らの心を探り、その動機を見抜こうとされたのではないでしょうか。

彼らはイエス様の奇跡を見るためについていったのでしょうか。それとも、イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったのでしょうか。または、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからこそ、ついていったのでしょうか。

おそらく、そのような理由でイエス様は彼らに挑戦されたのです。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:26-27)

要するに、「あなたは本当に私の弟子になりたいと思っていますか。その代価は高いです。家族を失うことになるかもしれませんし、自分の命さえ失うかもしれません。」ということです。

イエス様は弟子たちに楽な人生を約束されることは決してありませんでした。むしろ、その逆を約束されたのです。

十字架を負うことは決して楽なことではありませんでした。そして、人々が十字架を地面に置いた後、その十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。

けれども、十字架を負うことを拒み、つまりイエス様のために試練を受けることを拒むなら、イエス様は「弟子になることはできない」と言われました。

それは受け入れやすい言葉でしょうか。決してそうではありません。

それでもイエス様は私たちに挑戦されます。「私についていきたいと思うなら、まず費用を計算しなさい。」

イエス様はその決断を塔を築くことに例えられました。ある人が前もって費用を計算せずに塔を建て始め、完成できなかったなら、周囲の人々にあざ笑われるでしょう。

同じように、もしあなたがイエス様についていき始めても、試練のせいで諦めてしまったら、あなたは恥をかくことになります。

とはいえ、もう一つ費用を計算しなければなりません。それは、イエス様についていかない場合の代価です。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)

あなたには神様との平和があるでしょうか。それとも、神様と戦っているのでしょうか。

あなたは神様と戦っていないと思うかもしれません。しかし、もしイエス様をあなたの主として拒絶しているなら、実際には神様に反抗しているのです。

少し考えてみてください。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。それでは、なぜ私たちには神様との和解が必要なのでしょうか。それは、私たちが神様と戦っているからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。「あなたが神様と戦っているなら、その代価を計算しなさい。たとえば、ある王がほかの王と戦おうとするなら、まず勝利できる可能性を考えます。もし勝利できないと思えば、平和を求めるでしょう。」

私たちもそのようにすべきです。実際には、神様はすでに私たちに手を差し伸べておられます。

けれども、神様との平和を望むなら、神様の条件を受け入れる必要があります。それは、イエス様の十字架の御業を信じ、イエス様を主として受け入れることです。

そうすることで、私たちは本当の命を知ることができます。しかし、もしイエス様を拒絶したまま亡くなるなら、神様との戦いがどれほど深刻なものであったかを知ることになります。

ですから、まだ時間がある間に神様との平和を求めましょう。

神様は私たちにこの世の塩となるよう呼びかけておられます。神様の光と愛を通じて、この世に影響を与えるよう求めておられるのです。役立たない塩にならないようにしましょう。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

仲間を赦さない悪い家来のたとえ話:憐れみか火か:どちらで塩気がつけられる?

マタイ、マルコ、ルカの三人は、同じ事件について語っています。その話をまとめることは本当に興味深いものです。

けれども、この話の最初に戻りましょう。それは、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたことです。

おそらく論じ合う中で、多くの酷い言葉が交わされ、人々は深く傷ついたでしょう。そのため、イエス様は私たちが傷ついた時、どのように対応するべきかを教えてくださいました。

その後、ペテロがイエス様に質問をしました。おそらく他の弟子たちは彼を傷つけたことでしょう。それが初めてではなく、おそらくこれからもペテロは傷つけられることがあるでしょう。そのため、ペテロはイエス様に問いかけたのです。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

おそらく、ペテロは相手を七回赦すことが寛容な態度であると考えたのでしょう。その時代、多くの先生たちは三回赦すことが適切であると教えていました。(「ただし、聖書にはそのような教えは記されていません。)

しかし、イエス様はこう答えられました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

イエス様が意味されたことは、私たちが490回まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えることなく許さなくてはならないのです。

そして、イエス様は有名なたとえ話を語られました。

ある王が、しもべの大きな借金を免除しました。けれども、そのすぐ後、そのしもべは別の人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸していたため、返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ込みました。

王はそのことを聞いたとき、そのしもべを呼びました。そして、しもべが来た時、王はこう言われました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

そのため、借金をすべて返済するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言われました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとって、仲間が返済しなければならなかった借金は大きなものでした。それは約4か月分の給料に相当しました。

けれども、その借金をしもべが王に返済しなければならなかった借金と比べると、非常に小さいものでした。その額は何億円にも及ぶものでした。

時々、人々は私たちを傷つけ、その傷は本当に深いものです。とはいえ、私たちの神様に対する負債の方がはるかに大きいのです。私たちは自分の罪が小さいものだと思うことがあるかもしれませんが、実際にはその罪は積み重なります。

もし、あなたが毎日罪を3回ほど犯すとすれば、それは1年間で約1000の罪になります。そしてその数字をあなたの年齢に掛けると、何千もの罪になるのです。

それにもかかわらず、神様はあなたの罪をすべて赦してくださいました。だからこそ、私たちも他の人々を許すべきです。

では、もしそうしなかった場合にはどうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ込んだ時、その仲間は罪悪感に浸りました。

私たちも、しばしば同じような行動を取ります。私たちは相手を許さず、その縁を切ります。そして私たちは、相手が罪悪感に浸ることを望んでいるのです。

しかし、例え話では、王はそのしもべの行動を知った時、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は囚人を見張るだけでなく、その囚人を拷問する役割を担っていました。

同じように、私たちが相手を許さないなら、神様が私たちをサタンに引き渡すことがあると思います。(異なる文脈ですが、第一コリント5:5をご参照ください。)

その結果、サタンは私たちを苦しめ、私たちは自分の怒りや苦々しい思いに浸ることになります。

なぜ神様はそのようなことをされるのでしょうか。それは、私たちを憎んでいるからでしょうか。違います。それは、私たちが悔い改めることを望んでおられるからです。

いずれにせよ、このたとえ話の後に、もしかしたらイエス様はこう言われたかもしれません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、もしあなたが神様の憐れみによって塩気を付けられないなら、火によって塩気を付けられることになります。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めなものになるでしょう。

そして、イエス様はこう言われました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました。私たちは、この世の人々を憐れみと恵みで味付けする役割を果たすべきです。

けれども、もし怒りや苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちは塩気を失ってしまいます。そのため、イエス様は弟子たちと私たちにこう語られます。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうでしょうか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩の役割を果たしているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:罪を避けるだけではなく、良いことをする?

マタイの福音書における「黄金律」の箇所は、少し不思議だと感じます。特に、「それで」という言葉で始まるためです。

一般的に、「それで」という言葉は前の内容を指していますが、私にはその関連性が明確には見えません。1-6節との関係があるようには感じますが、7-10節との関係は少しわかりづらいです。

一方、ルカの福音書における「黄金律」の箇所は、もっと自然だと感じます。

その箇所では、イエス様が「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と語られた直後に、話をまとめてこう言われました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化にも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言っています。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

では、そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従う方がはるかに難しいのです。それは、積極的に相手に親切にしなければならないからです。

相手を傷つけないようにするのは、それほど難しくありません。もし、相手と全く接しないなら、彼らを傷つけることは避けられるでしょう。

けれども、相手と接することが全くなければ、彼らに親切にすることもできません。私たちは積極的に何かをしなくてはなりません。たとえ相手があなたを憎んでも、侮辱しても、利用しても、私たちは彼らに親切にすべきなのです。

それは難しいことですが、それこそが神様の望みなのです。

神様の子供として、私たちは罪を避けるだけでは十分ではありません。積極的に良いことを行うべきです。

私たちは山の上にある隠れることのできない町となるべきです。私たちは、この世を味付けする塩となるべきです。もし憎む人を愛するなら、私たちはその町であり、またその塩となるのです。

なぜなら、この世はそのような愛を理解できず、それを行う力もないからです。

しかし、イエス様に繋がっているクリスチャンはそれができます。それは、イエス様の愛が彼らの心に注がれ、溢れているからです。そして、その愛が自然と相手に流れていくのです。

あなたはどうですか。ただ罪を避けているだけでしょうか。それとも、イエス様の愛で心が満たされ、その愛を通して周りの人々に触れていますか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:塩と光

この箇所は本当に有名ですが、どれだけ私たちはその前後に気づいているでしょうか。その前後とは何でしょうか。

イエス様は迫害について話しておられました。つまり、私たちがイエス様のために迫害された時、私たちは祝福されるのです。(5:10-12)

その言葉を言った直後、イエス様はこう言われます。

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(5:13)

私たちは、どのように塩気をなくしてしまうでしょうか。私たちが家族や友達からのプレッシャーに負け、イエス様に従わずに彼らのようになってしまう時、私たちは塩気をなくします。

なぜなら、私たちは彼らを恐れ、彼らを喜ばせようとするあまり、神様を私たちの人生で第一にすることを忘れてしまうからです。

私たちは地の塩であるべきです。塩は食べ物を保存します。例えば、肉が腐らないように塩を使うことができます。

そのように、私たちの文化が腐らないように、私たちは人々に神様の道を教えます。それだけではなく、私たちの行動を通して神様の道を示します。そして、私たちを通して彼らは健全な人生と壊れた人生の違いを見出すでしょう。

さらに、塩は食べ物に味を付けます。そのように、私たちはこの世にイエス様の愛で味を付けるべきです。

しかし、私たちがこの世の民のように振る舞う時、この世を保存することも、この世に味を付けることもできません。

それに、神様はこの世の光となるために私たちをこの世に置かれました。私たちは隠れることのできない町であるべきです。それはどうしてでしょうか。道に迷った人々や傷ついて死にかけている人々に神様の栄光を示すためです。

それなら、どうして私たちは相手からのプレッシャーのためにその光を隠すのでしょうか。

あなたはどうですか。あなたはこの世の民のようになったために塩気をなくしたでしょうか。あなたの光は周りの人々に見えなくなってしまいましたか。

誰を喜ばせたいですか。神様でしょうか、それとも周りの人々でしょうか。私たちはイエス様の言葉に従いましょう。つまり、

あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)