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マルコの福音書のデボーション

塩気を失う?

今日の箇所を読んで、さまざまなことを考えさせられました。でも、イエス様の最後のことばには、特に心を打たれました。

塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。

あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。(マルコの福音書9:50)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました(マタイ5:13)。

私たちは、神の愛と恵みによって、この世に味をつけるべきです。

けれども、神の民が互いに愛し合うことができなければ、教会は塩気を失ってしまいます。

プライド、苦々しい思い、人を許せない心、自分勝手な態度によって、私たちは塩気を失うことがあります。

今日の箇所、そして関連箇所であるマタイ18章では、弟子たちがそのような問題を抱えていたことが明らかです。

しかし、正直に言うと、私自身もそのような問題を抱えています。

特に、自分勝手な態度とプライドは大きな問題です。昨日を振り返ると、そうした問題がまた現れました。だから、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうですか。人間関係の問題を抱えているでしょうか。特に、兄弟姉妹との関係に問題を抱えているでしょうか。

その関係の中で、あなたは塩気を失いかけているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34ー35)

イエス様の戒めを心に留め、互いに愛し合いましょう。そうすれば、神の教会は塩気を失うことなく、神の恵みと愛によって、この世界、そして日本に味をつけていくのです。

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ルカの福音書のデボーション

私たちは塩気をなくする

塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。

聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカの福音書14:34-35)

イエス様の弟子として、私たちの「塩気」をなくすことは、簡単なことです。つまり、イエス様のためにこの世に触れる力を失うのは、簡単なのです。

例えば、人が作った宗教的なルールに集中しすぎて、人への神様の愛と憐れみを忘れてしまうと、私たちは塩気をなくしてしまいます。また、イエス様の教えを拒むと、私たちは塩気をなくしてしまいます。(1-6)

恩返しすることができない人たちに謙遜に仕えず、むしろ、誇りのゆえに自分の大切さを周りの人々に示そうとするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(7-14)

神様のことを当たり前のものだと思い、神様よりも家族やほかのものを大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(15-20,26)

イエス様に従うことよりも、自分の人生や夢、快楽、経済的な安全性を大事にするなら、私たちは塩気をなくしてしまいます。(26-27,33)

イエス様、私の塩気をなくしたくありません。時々、私はあなたの言葉に耳を閉じてしまいます。あなたとその御国よりもほかのものを大事にするときもあります。どうか赦してください。

あなたの心を私に与えてください。つまり、私の周りの人々への、愛深く憐れみ深い心を与えてください。

私の目を開いてください。私があなたの栄光と憐れみを見ることができますように。私への愛を見ることができますように。

それらを見るとき、あなたへの愛と、あなたに仕える気持ちが再びかき立てられますように。あなたの御名によって祈ります。アーメン。