イエス様とサマリヤ人の会話に対する弟子たちの反応は、とても興味深いものです。ヨハネはこのことについて、次のように記録しています。
このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。
しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネの福音書4:27)
どうして、彼らはその質問をしなかったのでしょうか。
他のユダヤの教師たちが、人前でサマリヤの女性と話すなどあり得ないのに、弟子たちはイエス様の考え方に慣れ、当然のことと思ったのでしょうか。
それとも、本当はその質問をしたかったけれど、イエス様の反応を少し恐れていたのでしょうか。
おそらく、彼らは恐れていたのだと思います。
その状況を思い出してください。ユダヤ人はサマリヤ人を、ユダヤ教を汚した混血の人と見なしていました。そのため、彼らとは一切交流したくありませんでした。
それでも、サマリヤ人たちがイエス様に会いに来たとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。
目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(4:35)
つまり、「このサマリヤ人たちは、汚れたのけ者ではありません。彼らは救いの希望がない罪人ではありません。彼らは神様に愛されている人々です。
あなたには見えなかったかもしれませんが、神様はずっと彼らの心の中で働いておられました。ほかの人々が彼らの心に種を蒔きましたが、あなたには刈り入れる特権があります。」
そして、その日、たくさんのサマリヤ人がイエス様を信じるようになりました。
イエス様は人々が築いた文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、彼らを罪による死の危機から救われました。イエス様は私たちにも同じことをするよう招いておられます。
あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々をどのように考えていますか。
たとえば、アメリカでは、ユダヤ人がサマリヤ人を扱ったように、多くのクリスチャンがゲイの人々を扱っています。彼らはゲイの人々を敵と見なします。
しかし、ゲイの人々は私たちの敵ではありません。彼らも、私たちと同じように救い主を必要としているのです。
または、あなたが周りの人々にイエス様のことを伝えない理由が別にあるかもしれません。たとえば、彼らが創価学会に従っているから、あるいは、彼らの性格が嫌いだからかもしれません。
イエス様は私たちにこう言われます。「彼らを救いの希望がない人と見なしてはなりません。彼らを侮りに値する人と見なしてはなりません。
「彼らを、種を蒔くべき畑と見なしなさい。彼らを、刈り入れるべき畑と見なしなさい。そして、彼らを、私を必要としている人々と見なしなさい。」
あなたは種を蒔く人かもしれません。
あなたは刈り入れる人かもしれません。
いずれにせよ、文化的な壁や宗教的な壁を取り壊し、さらに私たちの心の中にある壁をも取り壊して、イエス様のためにこの死にかけている世界に触れましょう。
