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創世記のデボーション

私たちの希望

夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです。(創世記41:32)

その言葉は本当に興味深いです。

ヨセフはいろいろな苦しみを経験しました。どのようにしてヨセフは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

ヨセフの言葉の中に、私たちは彼の希望の理由を見ることができると思います。

つまり、彼が若いときに二つの夢を見て、その夢によって神様はヨセフの将来の希望を示されました。その希望は、神様のいつくしみと忠実さに基づいていました。

ヨセフの場合、「速やか」とは約20年のことでした。でも、結局、その日は来ました。

私たちも希望を持っています。その希望は確かなものです。

なぜでしょうか。

へブル人への手紙の著者によれば、私たちの希望は、変わらない二つのものに基づいています。それは、神様の変わらない約束と誓いです。(へブル6:17〜18)

おそらく、もう一つ加えることができるでしょう。それは、神様の良いご計画です。

その変わらないものによって、私たちには大祭司が与えられています。それはイエス様です。イエス様は私たちの大祭司であり、私たちの永遠の救いの源となられました。(へブル5:5〜10、7:10〜28)

だからこそ、前に置かれている希望をつかもうとして逃れてきた私たちは、力強い励ましを受けるのです。その希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものです。(へブル6:18〜19)

だから、どんな試練に遭っていても、ヨセフのように、キリストにある希望にしがみつきましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、 わたしの心は彼を喜ばない。

しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(へブル10:36ー39)

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ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この箇所では、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちのために祈られる姿を見ることができます。

この真理を心に留めておきましょう。イエス様は私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈ります。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのために祈ってくださいます。特に、イエス様は天の父が私たちを守ってくださるように祈られます。

もちろん、この箇所でイエス様は弟子たちのために祈られました。

けれども、イエス様が私たちのためにも祈っておられると信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対する世へ遣わされたように、私たちもまた敵対する世へ遣わされているからです。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面しています。

だから、イエス様はこのように祈られました。(今もなお、イエス様は私たちのためにこのように祈っておられることでしょう。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17:11,14-15)

福音のゆえに、あなたを憎む人もいるかもしれません。

迫害の時が訪れることもあります。

それでも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限界を定めてくださいます。そして、神様の力に頼るなら、私たちは耐えられない試練を経験することはありません。

だからこそ、どんなにつらい試練に直面しても、揺るがず堅く立ちましょう。神様は常に私たちとともにおられるのです。

そして、あなたは必ずその試練を乗り越え、勝利を得ることを忘れないでください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈っておられるのです。

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マタイ1章 マタイの福音書 ルカの福音書 ルカ3章

罪深い人と同じような形を取られた方

私たちがイエス様の系図を見るとき、二つの注意点があります。

一つ目は、マタイの福音書にある系図が不完全であるということです。つまり、いくつかの王たち(ヨアシュ、アマツヤ、エホヤキムなど)が省略されています。

英語の訳では「誰々は誰々の父である」と翻訳されていますが、この「父」という言葉は「先祖」という意味も含みます。

そのため、例えば「ヨラムにウジヤが生まれた」と書かれていても、実際の意味は「ヨラムはウジヤの先祖である」となります。

二つ目は、多くの学者が、マタイの福音書に記された系図がヨセフの系図であり、ルカの福音書に記された系図がマリヤの系図だと考えている点です。これは、ルカの福音書に「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていた」と記されているためです。

そのため、言い換えると、「イエス様は人々からヨセフの子だと思われていたが、実際には彼はヘリの子孫であった」ということになります。

(「父」という言葉が「先祖」を意味するように、「子」という言葉も「子孫」を意味する場合があります。)

実際、この系図の違いについてはさまざまな学説がありますが、それが非常に複雑であるため、ここでそれ以上深掘りすることはしません。😊

さて、この系図を見たときに、私の心に強く響いたことがありました。それは、イエス様がこの世に来られたとき、天から降りてきて「私は神だ!」と宣言するのではなく、私たち罪びとと同じ姿を取られたということです。イエス様は人間となったのです。

イエス様の先祖を見てみましょう。

アダムは完全な世界に造られたのに、罪をこの世に招き入れました。

テラ(アブラハムの父)は偶像を礼拝していました。おそらく彼の先祖たちも同じように偶像を礼拝していたでしょう。

ヤコブは詐欺師でした。

ユダは、義理の娘タマルに騙され、彼女が売春婦だと思ったため、彼女と寝ました。その結果、タマルは双子を産み、そのうちの一人がイエス様の先祖となりました。(創世記38章)

ラハブは、イスラエル人から見れば外国人であり、売春婦でもありました。

ルツもまた外国人であり、モアブ人でした。通常、ユダヤ人はモアブ人を見下していました。(申命記23:3-4)

ダビデは、ほかの人の妻バテ・シェバと関係を持ち、彼女の夫を殺しました。けれども、ダビデとバテ・シェバの間にはソロモン(マタイ1:6)とナタン(ただし預言者ナタンではありません。ルカ3:31)が生まれました。

また、多くのユダの王たちは神様に背を向けました。(例えば、アハズとマナセ)。

イエス様はそのような系図から来られました。 なぜでしょうか。なぜ、別の系図に属されなかったのでしょうか。なぜ、直接天から来られなかったのでしょうか。

ところが、イエス様はそうはされませんでした。むしろ、人間となられて、「私はあなたのようになります」と示されたのです。

また、別の方法でも、イエス様は私たちのようになられました。

彼は特別にハンサムな方ではありませんでした。(イザヤ書53:2)

彼は貧しい家庭にお生まれになり、その父ヨセフが亡くなった後、イエス様は懸命に働いて家族のニーズを支えられました。

イエス様は時々疲れ、時にはお腹がすくこともありました。

彼はさまざまな試練を経験されました。拒絶され、誤解され、虐待され、裏切られ、そして深い苦しみを味わわれました。

それはなぜでしょうか。

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル4:17)

つまり、イエス様は私たちを理解するために人間となられました。イエス様が私たちのことを深く理解されているからこそ、彼は私たちの大祭司として慈悲深いのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は次のように言っています。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)

今日、あなたはどのように感じていますか。自分の罪によって落ち込んでいるでしょうか。家族を支えるために、いつも疲れ切っていますか。苦しみの中にいるでしょうか。拒絶されたと感じていますか。傷ついているでしょうか。裏切られた経験がありますか。

その感情をイエス様の前に捧げましょう。イエス様はあなたのことを深く理解されています。そして、イエス様は必ずあなたを助けてくださいます。