神様のことを考えると、私たちがあまり考えたくないことの一つは、神様がいつか全世界を裁くということです。つまり、神様が私たちを裁くということです。
でも、神様は私たちの裁判官であり、ある日、私たちを裁かれます。
ハンナはこう歌いました。
主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。(サムエル記第一2:3,口語訳)
また、
主は地の果ての果てまで裁かれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。(10節)
イエス様が神に油注がれた王として、つまり、メシアとしてこの世に来られると、ハンナの言葉は成就します。
そして、裁きの日に、神様はご自分を重んじる者を重んじ、ご自分を蔑む者を軽んじられます。(30節)
エリとその息子たちの人生において、また、サムエルとその母の人生において、それを見ることができます。神様はエリとその息子たちを裁かれましたが、サムエルとその母を重んじられました。
実のところ、私たち皆は裁かれるのが当然なのです。なぜなら、私たち皆が神様に対して罪を犯したからです。
エリはこう言いました。
人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪をおかすなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(25節)
でも、良い知らせは、この世に来られた時、イエス様が神であるだけでなく、人間でもあったということです。そして、神であり人間として、イエス様は天のお父さんの前で、私たちのためにとりなしてくださいます。
私たちの、いつも生きておられる忠実な大祭司として、イエス様は私たちのためにとりなしをしておられます。
そういうわけで、イエス様は、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことができます。(へブル7:24〜25)
だから、恐れ、喜びましょう。
神様を恐れ、聖なる方としましょう。なぜなら、神様は私たちの行いを量り、裁かれるからです。
でも、それと同時に、喜びましょう。なぜなら、イエス様は、神様を愛してあがめる人々のためにとりなしてくださっているからです。
だから、私たちは喜びと確信をもって、こう言えます。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)
