9章では、パウロはコリントの人々に「冠を失うことのないよう注意すべきだ」と警告しました。
彼の要点は、自己中心的な態度を持ってはならないということです。なぜなら、彼らが自分の権利ばかりを主張し、自己中心に行動したことで、良心の弱い人々が罪に陥ってしまったからです。
そのため、パウロは、コリントの人々が報いを失う危機にあることを警告しました。
パウロ自身も、自らの報いを失わないために、自分の権利を犠牲にしました。
10章では、パウロはさらに自身の考えを説明します。
彼は、神様がエジプトから救い出されたイスラエルの民について語ります。そして、彼らが荒野で経験した出来事をクリスチャンの歩みに例えます。
イスラエルの民が紅海を渡ったことは、バプテスマの経験に似ています。彼らは古い人生、つまり奴隷の生活に対して死に、神様の民となりました。
彼らは天からのパンを食べました。(イエス様はヨハネ6:33-35で、ご自身を「天からのパン」と呼ばれました。)
そして、彼らは岩から生ける水を飲みました。(ヨハネ7:37-39によれば、その水は聖霊様の象徴でした。パウロによれば、その岩もキリストの象徴でした。)
けれども、イスラエルの民は約束の地という報いを受けたでしょうか。残念ながら、彼らはその土地に入る権利を失い、荒野で命を落としました。
なぜでしょうか。
一部のイスラエルの民が偶像礼拝を行ったからです。彼らは自ら造った偶像を拝む際に、酔っぱらったり、あるいは性的な罪を犯した可能性もあります。(出エジプト記32章)
正直なところ、その時彼らが性的な罪を犯したかどうかは定かではありません。とはいえ、民数記25章では、彼らが確かにその罪を犯し、その結果として滅びてしまいました。
ほかのイスラエルの民は主に信頼せず、不平を言いました。彼らは食べ物や水がないことに不満を抱き(民数記21:4-9)、また約束の地にいる強大な敵を見て、カナンに入ることを拒みました(民数記14)。
だから、パウロはこう記しています。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(コリント人への手紙第一10:11)
要するに、イスラエルの経験は、私たちへの例えです。その例えは何を教えているでしょうか。
私たちは洗礼を受け、聖餐式に参加し、神様の御霊に満たされます。それでも報いを失う可能性があります。もし本当にクリスチャンであるなら、救いは失われませんが、冠を失うことがあります。(第一コリント3:15)
では、どのようにして冠を失うのでしょうか。それは、一時的なものに焦点を当てることによって失われます。つまり、この世の快楽に夢中になったり、試練に直面して不平を言ったりすることです。
この世の快楽に心を奪われると、私たちは最も大切なものを見失います。すなわち、神様とその御国です。試練に焦点を当てて不満を述べるなら、私たちは信仰を失い、走るべきレースを途中でやめてしまいます。
だから、パウロは私たちに警告を与えています。
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(12)
一時的な快楽に夢中になり、報いを失わないように。
また、この世のものに執着し、神様や兄弟姉妹への愛を忘れないように。 そして、試練によって信仰を失わないように。
むしろ、
一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル人への手紙12:1)
あなたはどうでしょうか。報いを失う危機にあるでしょうか。
