ある偽教師たちとその教えが、コロサイの教会に入り込んできたようです。
彼らが具体的に何を教えていたのかは、私たちには完全には分かりません。しかし、はっきりしているのは、彼らが「イエス様だけでは不十分である」と教えていたことです。
要するに、「神様のもとに近づくためには、さまざまな天使の助けが必要であり、その天使たちをも礼拝すべきだ」と語っていたのです。
さらに彼らによれば、コロサイの信徒たちはまだいくつもの奥義を学ぶ必要があり、それを教えることができるのは偽教師たちだけだという主張でした。
つまり、「神様に義と認められるためには、さまざまな儀式を行い、修業に励まなければならない」と教えていたのです。
だから、この箇所でパウロが強調しているのは、「私たちに必要なのは、ただイエス様だけである」ということです。
では、なぜ私たちには、イエス様だけが必要なのでしょうか。
なぜなら、イエス様は、すべての創造物にまさって偉大なお方だからです(コロサイ人への手紙1:15)。
パウロが「イエス様はすべての造られたものより先に生まれた方」と語ったのは、イエス様が創造物の上におられる方だという意味です。
エホバの証人は、神様がすべての創造物に先立ってイエス様を創造したと教えます。しかし、それはパウロが意図したことではありません。パウロの意味するところは、イエス様の立場が創造物よりもはるかに高く、すべてを支配するお方であるということです。
では、なぜイエス様はそのような高い立場を持っておられるのでしょうか。
それは、イエス様がすべてのものの創造主だからです。万物はイエス様にあって造られ、イエス様のために造られたのです。天使たちも、あらゆる霊的な力も、そして私たち人間も、すべてイエス様によって造られました(16)。
さらに、イエス様はすべてのものに先立って存在し、イエス様にあって万物は保たれ、秩序づけられています。もしイエス様がほんの一瞬でもこの世界から御手を離されたら、この世界は崩れ去ってしまうでしょう(17)。
また、神様はイエス様を教会のかしらとしてお立てになりました。天使や人間ではなく、イエス様ただお一人を、教会のかしらとして任命されたのです。
そして、イエス様は十字架で死に、よみがえられたことによって、私たちにとって模範となられました(18)。
それだけではなく、神様はご自身の満ち満ちたものをすべて、イエス様のうちに宿らせてくださいました。だから、イエス様は見えない神のかたちなのです。
ですから、もし神様を知りたいと願うなら、イエス様を見ればいいのです(15、19)。
そして、イエス様の十字架の死によって、私たちは神様と和解させていただきました。私たちには、もはや他の仲介者は必要ありません。
イエス様を通して、神様は私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として、ご自身の御前に立たせてくださいました(20〜22)。
偽教師たちは神様の奥義について語っていましたが、イエス様にあって、最も大切な奥義はすでに現されたのです。
その奥義は、世々にわたり多くの世代に隠されていましたが、今や私たちに明らかにされました。
その奥義とは何でしょうか。それは、イエス様を信じる信仰によって、イエス様ご自身が私たちのうちに住んでおられるということです。
ユダヤ人であれ、アメリカ人であれ、日本人であれ、イエス様が私たちのうちにおられるので、私たちはイエス様にあって一つのからだ、一つの教会とされたのです。そして、私たちはこの世において、神様の栄光を映し出す者とされました。
では、なぜ私たちは「ほかのものが必要だ」と思ってしまうのでしょうか。
本当は、私たちには他の何も要りません。だからこそ、パウロはこう言うのです。 「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています」――イエス様にあって、私たちは成熟した者とされるのです(28)。
それなのに、どれほど私たちは「イエス様以上の何かが必要だ」と思って生きていることでしょうか。私たちは他の宗教を追い求めたり、特別な霊的経験を渇望したり、あるいはこの世のものをひたすら追いかけたりします。
けれども、そうしたものは私たちを本当に満たすことはできません。イエス様だけが、私たちの心を満たすことができるのです。
あなたはどうですか。自分の人生を満たすために、何を求めているでしょうか。
イエス様だけが、あなたを満たすことができます。 あなたにとって必要なのは――イエス様ただお一人なのです。
