多分、ペテロの時代においては、他のどんな人々よりも、奴隷たちにとって権威に従うことは最も難しいことであったでしょう。
彼らにとって、キリスト教の教えの魅力の一つは、奴隷も自由人もなく、クリスチャン全員がキリスト・イエスにあって一つであるということでした。(ガラテヤ3:28)
それでも、彼らにとってその真理はまだ完全に実現していませんでした。なぜなら、彼らは依然として奴隷であったからです。
中には優しい主人もいましたが、そうではない主人もおり、時には何も悪いことをしていないのにむち打たれることさえありました。そのような状況で、ある奴隷たちは反逆したり、逃げようと考えたかもしれません。
しかし、ペテロは彼らにこう言ったのです。
しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。(ペテロの手紙第一2:18-20)
簡単に言うと、たとえ主人が尊敬に値しなくても、私たちは尊敬しなくてはなりません。主人を尊敬する人は、神様のしもべとしてふるまい、それによって神様の称賛を得るのです。
もちろん、日本には奴隷制はありません。もし私たちが自分の上司を嫌っているなら、その働きを辞めることも可能です。
それでも、もしかしたら、あなたは悪いことをしていないのに虐待された経験があるかもしれません。
あるいは、権威を持つ人があなたを虐待していて、逃げることが難しいと感じているかもしれません。その人が親である可能性もありますし、先生である可能性もあります。
また、仕事を辞めることができない状況で上司に虐待されている場合もあるでしょう。あなたは虐待されているのに、どうすることもできず、逃げられないと感じているかもしれません。
そのような状況において、無礼な態度を取り、自分の傷のために相手を傷つけようとするのは簡単なことです。
しかし、キリストのしもべはキリストの模範に従います。特に苦しむとき、キリストのしもべはキリストの足跡に従います。(21)
キリストは唾を吐かれ、そしられ、打たれ、そして十字架にかけられました。それでも、
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(22-23)
どうしてイエス様はそのようになさったのでしょうか。それは、私たちのためです。
イエス様は、私たちが罪の道を歩み続け、自分勝手に生きるためにそうなさったわけではありません。むしろ、イエス様は、私たちが罪を離れ、義のために生きるためにそうなさいました。私たちがイエス様のしもべとして、また使節として生きるために、イエス様はそのようになさいました。(24)
私たちはかつて、神様から遠く離れ、自らの人生をめちゃくちゃにしていました。けれども、イエス様を通して、神様が私たちを癒してくださったので、私たちは自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとへ帰ることができました。(24-25)
だからこそ、私たちは自分の古い人生に戻ってはいけません。たとえ相手があなたを故意に傷つけたとしても、相手を傷つけるべきではありません。
むしろ、神様のしもべとして生きましょう。イエス様の模範に従い、私たちを傷つける人たちに対しても神様の代表者となり、光を照らしましょう。
ただし、誤解しないでください。もし、あなたが危険な状況にあるなら、自分のいのちを守らなくてはなりません。その場合は逃げるべきです。
それでも、イエス様が自分を傷つけた人たちに対してふるまわれたように、私たちもその模範に従ってふるまうべきです。
そうするなら、神様はそれをご覧になり、最終的にあなたに報いを与えてくださいます。
