今日、イエス様の弟子たちへの指示についてさらに深く考えていこうと思います。
7-8節は、私の心に響きました。イエス様は弟子たちに、「病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言われた後、次のように言われました。
あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイの福音書10:8)
つまり、あなたは無償で神様の恵みを受けたのですから、その恵みを周りの人々に無償で与えるべきです。神の国はお金を儲けるためにあるものではありません。
牧師や宣教師が、自分の働きのために報酬を受け取るべきではない、という意味ではありません。実際、イエス様は「働く者が食物を与えられるのは当然のことです」と言われました。
とはいえ、福音を伝える目的は報酬を受け取ることではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えることなのです。
もう一つ、私の心に響いたことがあります。イエス様は弟子たちに何度も警告されました。
「すべての人々があなたを受け入れるわけではありません。あなたが神様の働きをし、彼らに神様の言葉を伝えたとしても、彼らがあなたを必ずしも愛するわけではありません。」
むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する者がいる、とイエス様は警告されました。そのため、弟子たちは奉仕をする際に、友人や家族に対しても注意を払うべきでした。
これは言い過ぎのように聞こえるかもしれませんが、当時の時代背景においてはそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは激しい迫害を受けました。
もし彼らがすべての人々を信頼していたなら、殺されていたことでしょう。サウロのように、彼らの家族や友人はクリスチャンを迫害することを神様の御心だと考えていたからです。
そのため、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言われました。要するに、行動を起こす前に慎重に考えなさいということです。相手がどのような人かをよく考慮し、相手が信頼できるかどうかを見極めるべきだということです。
それでもイエス様は続けられました。「鳩のように純真でありなさい。」(10-16)
あなたが裏切られた時にも、愛が冷めないように注意してください。相手を憎むことなく、復讐の心を捨てなさい、ということです。
私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。もしあなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいるでしょう。おそらく、家族や友人があなたを殺すことはないかもしれませんが、彼らがあなたを拒絶することはあるかもしれません。
イエス様は弟子たちに次のように言われました。
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。
彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)
私は前にも言いましたが、イエス様は完全な愛を持った方でした。彼の人生は完璧でした。
しかし、それにもかかわらずイエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ぶ人もいたのです。
そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待できるでしょうか。
だからこそ、他人に愛されるためだけに努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになることに努力すべきです。なぜなら、イエス様はあなたのためにご自身の人生を十字架でささげられたからです。
