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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは

多くの人々は十戒や旧約聖書の律法を見ると、こう考えます。「律法によって私は義と認められるだろう。永遠の命を望むなら、その律法に従うべきだろう。」

ところが、この考え方は、律法が何であるか、そして何ではないかについての誤解です。また、律法が何をするのか、何をしないのかについての誤解でもあります。

そこで、パウロは律法について具体的に説明します。

人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。(ガラテヤ人への手紙3:15-17)

パウロによれば、契約がいったん結ばれると、それを簡単に無効にすることはできません。この箇所で、パウロが言う「契約」とは、おそらく遺言について語っているのでしょう。

人が遺言を書き、亡くなった後、その遺言を簡単に無効にすることはできません。なぜでしょうか。それは一方的な契約だからです。つまり、一人の人だけが契約の条件を定め、その人の約束に従って契約の条件が実行されるのです。

神様はアブラハムとそのような契約を結ばれました。この契約はアブラハムの行いに基づいているのではなく、むしろ神様の約束のみに基づいていました。

創世記第15章では、神様はアブラハムの子孫についてさまざまな約束をされました。そして、煙の立つかまどと燃えているたいまつとして現れ、アブラハムへの約束の証として、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられました。

現代の私たちの文化では、それは非常に不思議なことのように思えますが、当時の文化では、人々はそのように契約を結んでいました。(その時代には印鑑などが存在していませんでした。)

通常、契約を結んだ二者が、切り裂かれた動物の間を通り過ぎました。その意味は、「もし私がこの契約を守らなければ、この動物のように殺されることになる」というものでした。

ところが、神様とアブラハムの契約では、アブラハムはその切り裂かれた動物の間を通り過ぎませんでした。神様だけが通り過ぎられました。それは一方的な契約でした。

そして、パウロによれば、その契約はアブラハムだけのためではありませんでした。その契約はアブラハムの子孫、つまりイエス様のためだったのです。

創世記第12章7節、第13章6節、第15章18節におけるアブラハムへの神様の約束に関するパウロの解釈は、とても興味深いものです。

「子孫」という言葉は、一人の子孫を指す場合もあれば、多くの子孫を指す場合もあります。創世記では、神様は主にアブラハムの多くの子孫について語られました。

ところが、パウロによれば、もちろんその契約の祝福はアブラハムの真の子孫すべてのためでしたが、特にイエス様のためのものでした。そして、イエス様を通して、アブラハムのほかの子孫は祝福を受けるのです。

また、パウロは一つの重要なことをはっきりと教えています。律法は神様の約束の条件を変えるものではありません。その約束はアブラハムの行いに基づくものではありませんでした。だからこそ、神様の約束は私たちの律法を守る能力に基づくものでもないのです。

なぜでしょうか。パウロはこれについて説明します。

相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。(18)

要するに、もし神様の祝福が律法の遵守によるものであるなら、その祝福はもはや神様の約束による一方的な契約に基づくものではなくなります。むしろ、その祝福は律法の遵守に依存することになります。

ところが、神様が祝福の約束を与えた時、その約束には条件がありませんでした。神様の契約は、恵みによる一方的なものです。

その契約が一方的なものであるため、神様はそれを簡単に無効にすることはできません。神様はご自身の約束を必ず守られます。なぜなら、それが神様の御性質だからです。神様はご自身が約束されたことを必ず成し遂げられます。

だから、覚えておきましょう。律法は神様の約束に取って代わるものではありません。アブラハムとその子孫に神様が約束された祝福は、神様の律法の遵守に基づいているのではありません。

では、律法の目的とは何でしょうか。次の記事で、そのことについてお話しします。