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マタイの福音書 マタイ5章 ルカ6章

山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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イザヤ書

罪は何でしょうか。罪の結果は何でしょうか。

それでは、イザヤ書を始めましょう。イザヤは大預言書の最初の預言者です。いつも通りにできるだけ、イザヤ書の話を歴代誌と列王記の話と統合します。全部を時系列順にすることは約束できませんが、頑張ります。

多くの日本人は「罪」と言うと犯罪を考えます。例えば、殺人やレイプ、盗難などです。

だから、多くの日本人は「すべての人々は罪人です」と聞くと、こう思います。「私は罪人ではありません。殺人やレイプを犯したことがないからです。」

西洋諸国でも、多くの人々は「私はそんなに悪くない」と思います。

けれども、神様によれば、罪とは何でしょうか。この箇所では、神様が私たちに教えてくださいます。

子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。

牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。

彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。(イザヤ書1:2-4)

1.罪は神様に逆らうことです。

神様がおられることを知っているし、神様が私たちの正当な王であることを知っているのに、私たちは自分の心の王座に座ります。つまり、私たちが神様とその道を拒絶することです。それは罪です。

2.罪は悪いことをすることです。

西洋諸国には、多くの人々は罪をそう定義します。けれども、悪い行動は本当の問題の症状に過ぎません。

本当の問題は神様に逆らう心です。人々が神様に逆らうので、悪いことをするようになります。

3.罪は神様を捨てたり、侮ったり、神様に背を向けて離れ去ったりすることです。

つまり、私たちがこう言うことです。「神様、私にはあなたは要りません。」

あなたは殺人やレイプや盗難などを犯さないかもしれませんが、神様に背を向けて、「あなたは要りません」と言ったら、あなたは罪人です。

その態度は霊的な姦淫のようです。神様は私たちの霊的な夫ですが、私たちは他のものを探し求めます。実際、神様はユダとイスラエルをその罪のために責められました。(21)

罪の結果は何でしょうか。私たちは霊的に病気になり、人生はめちゃくちゃになります。

神様が言われました。

あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。

足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。(5-6)

ある牧師は、「聖い」というのを「完全」と定義しました。その定義が多くの意味で正しいと思います。

私たちの人生が聖いなら、また、神様の命令に従うなら、私たちの人生は完全になります。私たちの結婚や他の人間関係がうまくいき、私たちの経済もうまくいき、私たちの人生もうまくいきます。

しかし、自分の道を頑固に進み続けたら、全てはめちゃくちゃになります。私たちの人生は「病気」になります。

そして、治療法を探しても、神様に背を向け続けると、その治療を見つけることができません。

だから、神様が私たちに言われます。

さあ、来たれ。論じ合おう。。。

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(18)

あなたはどうですか。あなたの結婚と人間関係と人生に傷と打ち傷と打たれた生傷が見えるでしょうか。自分の道を進み続けたら、治りません。

だから、主に向かいましょう。神様に信頼しましょう。神様があなたを洗って変えるように祈りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全になります。