カテゴリー
ローマ人への手紙

どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか(2)

前回の記事で、私は「なぜ神様への道はイエス様だけなのか」という疑問について話しました。今日の記事では、この疑問をさらに深く掘り下げたいと思います。

前回の記事でも述べたように、パウロは特にユダヤ人について語っています。とはいえ、彼の言葉はすべての宗教的な人々にも当てはまると思います。

パウロはこう言いました。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ人への手紙10:1-2)

パウロは非常に重要なポイントを教えています。

多くのユダヤ人や宗教的な人々は神様に対して熱意を持っています。もちろん、それは良いことです。しかし、知識に基づかない熱意は必ずしも良いものではありません。

特に、彼らは神様が最も望んでいるのは信仰であるということを理解していません。

さらに、パウロはこう言います。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。(3)

これは宗教的な人々が抱えるもう一つの問題です。彼らは本当の義を知らないため、「義」を勝手に定義してしまいました。

つまり、何が良いことであり、何が罪であるのかを、自分たちの基準で決めてしまったのです。彼らは、神様が何を望んでおられるかを想像し、その想像に基づいて独自のルールを作り上げました。

そのため、彼らが本当の義、つまりイエスを信じる信仰による神の義を知ったとしても、その義を拒絶してしまいます。むしろ、彼らは自分で作り上げた道を歩み続けます。

しかし、もしあなたがどれほど熱意を持っていたとしても、神様の基準に反する基準を築いてしまっているなら、神様はそれを喜ばれません。

実際、たとえ神様が人間的な基準を許されたとしても、人々は自ら定めた基準を完全に満たすことができません。

だから、パウロはこう言いました。

モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。(5)

もちろん、パウロはユダヤ人とモーセの律法について語っていました。

しかし、少し考えてみてください。日本では、誰が日本のルールや法律を完全に守ることができるでしょうか。

完全にルールや法律を守る人は誰もいません。それでも、多くの人は、ルールを守ることによって神様を喜ばせようとします。

だからこそ、自分の宗教的なルールを築くとき、二つの意味で彼らは失敗してしまいます。

第一に、彼らの基準が神様の基準ではないことです。

第二に、彼らは自ら定めた基準を完全に満たすことができないということです。

では、なぜ彼らは、神様が自分たちを受け入れてくださると考えるのでしょうか。特に、神様が最も望んでおられるのは、彼らが神様に信頼することですが、彼らはそうしないのです。

それではいけません。

だからこそ、パウロはこう言います。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

簡単に言えば、私たちは自分の基準や宗教を手放す必要があります。なぜなら、それらによって神様を喜ばせることはできないからです。だからこそ、イエス様に心を向けましょう。

キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:30)

カテゴリー
イザヤ書

虚しい宗教

神様は虚しい宗教に全く感動されません。ミカ書6章では、神様がそのことについて語られています。そして、この箇所でも、同じテーマが語られています。

この箇所では、イスラエルの民が神様に対して文句を言いました。

なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。(イザヤ58:3)

外見だけを見ると、それが正当な文句のように思えるかもしれません。なぜなら、

彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。(2)

けれども、神様は私たちの断食や祈り、宗教的な行動だけをご覧になっているわけではありません。神様は私たちの人生のすべてを見ておられます。

それゆえ、神様はイスラエルの民にこう言われました。

見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。

あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。

わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。

飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(3-7)

つまり、「あなたが祈り、断食をするとき、霊的な人々のように見えるかもしれません。しかし、それ以外のときに自分自身のためだけに生きているなら、あなたの断食と祈りは無意味です。

あなたの周りには多くの人々が悩んでいるのに、あなたが彼らを無視しているなら、そのような生き方では、私にとってあなたの断食と祈りは意味をなしません。」

一方で、あなたが周りの人々に手を差し伸べるならば、

。。。暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。

そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。。。

あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。

あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(8-11)

多くの人々は「日曜日クリスチャン」です。つまり、彼らは日曜日には教会に行くけれど、それ以外の日には自分自身のために生きています。

イスラエルの民も、安息日に神様を礼拝していたかもしれませんが、他の日には自分自身のために生きていました。実際、多くの場合、安息日ですら彼らは自分のために生きていたのです。

そのため、神様は彼らにこう言われました。

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。(13-14)

ですから、日曜日には自分自身のために生きるのではなく、その日を神様を敬うために過ごしましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの信仰は虚しいものでしょうか。それとも、神様と他の人々への愛が、あなたの心に豊かに満ちているでしょうか。

神様は、私たちの宗教的な形式や習慣を望んでおられるわけではありません。神様が望んでおられるのは、私たちの愛です。そして、私たちが周りの人々を愛し、彼らに仕えることを望んでおられます。

あなたはどのような信仰を持っていますか。

カテゴリー
ミカ書

空しい宗教

この箇所では、イスラエルの民は神様の裁判所に立たされていました。そして、神様は彼らを被告として召喚し、問い詰められました。

わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。(ミカ書6:3)

そして、神様はご自身の証言をされました。「私はあなたたちをエジプトから救い出しました。また、私はあなたたちを荒野で守り、私が約束した土地に導きました。」(4-5)

ところが、イスラエルの民はその言葉を聞いて苛立ちました。

彼らは答えました。

「しつこいですね。それでは、私たちに何を望んでおられるのですか。子牛や雄羊のいけにえですか。それとも、私たちの子供をいけにえとして捧げることでしょうか。一体何を求めておられるのですか。」

現代でも、多くの人々は同じような態度で神様に向き合います。彼らは、神様が宗教的な儀式を求めておられると誤解しています。例えば、神様が彼らに教会に行くことや献金を捧げることを望んでいると考えています。

多くの人々はイースターの六週間前からタバコや砂糖、肉を控えます。(これを四旬節と言います。)

けれども、その年の残りの期間は、まったく神様のことを考えず、自分自身のために生きるのです。

イスラエルの民も同じでした。彼らは神様の怒りを収めるためにいけにえを捧げることには同意しましたが、その後は自分自身のために生き続けたいと考えていました。

しかし、ミカはこう答えました。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(8)

神様は空しい宗教に興味を持っておられません。空しい宗教とは、神様を愛さずに宗教的な行為だけを行うことです。つまり、ある日は宗教的なことを行うけれど、その残りの日々は自分自身のために生きることです。

イスラエルの民の場合、彼らは日々の商売でお客さんを騙し、暴力や不正に満ちた生活をしていました。

それゆえ、神様は怒られました。イスラエルの民は宗教的な儀式を行ったにもかかわらず、神様が本当に望んでおられることは全く行いませんでした。すなわち、正しいことを行い、誠実を愛し、へり下って神様と共に歩むことです。

神様はそれを日々求めておられたのです。一週間に一度だけそのような態度を取ることを望んでおられたのではありません。

あなたはどうでしょうか。神様を喜ばせることは何だと思いますか。

それはお金だけではありません。それは教会に行くことだけではありません。それは宗教的な儀式を行うことだけでもありません。

イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、犠牲や献金、儀式については全く言及されませんでした。

むしろ、イエス様はこう言われました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 (マルコ12:30-31)

あなたは神様を喜ばせたいと願っていますか。

空しい宗教的な行動だけでは、神様を喜ばせることはできません。

もし神様を喜ばせたいと願うなら、毎日神様を愛し、周りの人々を愛するべきです。

それが神様の望まれることなのです。