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マタイの福音書 マタイ13章

神の宝を分かち合う?

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様は私たちにこの質問をされるのではないかと思います。この箇所で、イエス様は同じ質問を弟子たちにされたのだと思います。

イエス様は彼らにこう問いかけられました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言われました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(マタイの福音書13:52)

この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようなものです。(ギリシャ語で「倉」という言葉には、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、この同じ言葉が新改訳で「宝」として翻訳されています。)だから、私たちはその知識を軽んじてはいけません。

2.私たちが問題に直面するとき、また周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を活用すべきです。

私たちは神の国に関する知識という宝を与えられています。その知識を周囲の人々に分かち合わなければなりません。私たちのメッセージは何ですか。

そらは、神様は人々を素晴らしい価値のある真珠とみなされるのです。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、十字架で私たちを買い取られました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれ、裁かれるのです。

さらに、今でも神様はこの世に働いておられます。そして、神様が蒔かれた種は小さいかもしれませんが、その過程が私たちには見えなくても、その種は成長します。サタンでさえ、その成長を止めることはできません。

そして、その木の下で、人々は平和と喜びを見いだすのです。

あなたがその宝を分かち合うとき、それを初めて聞く人もいれば、何度も聞いたことがある人もいるでしょう。

それでも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに分かち合いましょう。なぜなら、多くの人々が愛、希望、そして人生の目的を求めているからです。そして、私たちが持っている宝だけが、その飢えを満たすことができるのです。

さらに、ある日、神様はあなたに問われるでしょう。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたが、それをどうしましたか。周りで苦しんでいた人々にそれを分かち合いましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ13章

隠された宝と真珠の商人のたとえ話:救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいたとき、木の下に埋まっていた缶を見つけました。それはただのごみのように見えましたが、注意深く見ると、中には古い金貨が入っていました。その金貨は1800年代のものでした。

さらに庭を探してみると、彼らは金貨が入った缶をいくつも見つけました。その金貨の価値は約10億円でした。私もそんな宝物を見つけられたらいいのにと思います。

この箇所で、イエス様のたとえ話は、この話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性が畑に隠された宝を見つけました。けれども、その畑は自分のものではなかったため、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を購入しました。

2つ目のたとえ話では、商人が真珠を探していて、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、その真珠は非常に高価だったため、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その真珠を購入しました。

これら2つの話を読むとき、私は2つのことに心を打たれます。

1つ目は、宝を見つけた人たちの喜びです。2つ目は、どうしてもその宝物を手に入れようとする彼らの決意です。

多くの人々がこの話を読むとき、キリストを見つけた人の喜びを思い浮かべます。

イエス様との関係には計り知れない価値があるため、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる覚悟があります。イエス様に従うために、自分の家や家族、持ち物を手放します。(マルコ10:29)

それは少し痛いかもしれませんが、彼の喜びはその苦しみをはるかに上回ります。

けれども、この話にはもう一つの解釈があります。それは、私たちが宝物であり、真珠であるということです。そして、イエス様が私たちを探している人です。

私たちは自分の罪のために迷い、霊的に死んでいました。ところが、イエス様が私たちを見つけたとき、喜びをもってすべてを売り払って私たちを買い取られました。イエス様は天国を去り、自分の栄光を天国に残して人間となられました。

この世にいる間、イエス様は空腹を感じることもあり、喉が渇くこともあり、疲れることもあり、痛みに耐えることもありました。そして、イエス様は十字架で苦しみ抜いて死なれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様にとって私たちがすばらしい価値を持つ真珠だからです。私たちは埋もれている宝物です。

私たちは汚れていて、錆びついているかもしれませんが、イエス様の目には非常に高い価値がありました。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買い取られました。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

パウロは次のように言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、毎日私たちを愛してくださる救い主をほめたたえましょう。。