以前述べたように、パウロは結婚の比喩を用いて、二つのポイントを描写しようとしました。
私たちはすでに最初のポイントを見ました。それは、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対する力を失うということです。同様に、死によって、結婚の律法は夫婦に対する効力を失います。
前回の記事で私は、パウロがこのポイントを描写する際、私たちを死んだ夫と比べるのが自然な流れであると述べました。
つまり、夫が亡くなると、律法は彼に対する効力を失います。同じように、私たちはキリストと共に死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったのです。
けれども、実際には、パウロは夫の死がどのようにして妻を結婚の律法の支配から解放するかについて、詳しく語っています。
そのため、この比喩は少し分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫とは比較せず、まだ生きている妻と比較しています。
しかし、彼が結婚の比喩をこのように用いることによって、パウロは第二のポイントを説明することができました。そのポイントとは何でしょうか。
それは、私たちがクリスチャンになる前、別の夫と結婚していたということです。けれども今、私たちはイエス様と結びつけられています。
このポイントを描写するために、パウロはイエス様を新しい夫として描き、私たちを妻として描いています。では、この比喩において、私たちはかつて誰と結婚していたのでしょうか。その死んだ夫とは誰でしょうか。
私は以前述べましたが、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは律法が廃されるとは教えていないからです。今でも、律法は重要な役割を持っています。律法は私たちに、何が善で何が罪かを示します。(ローマ人への手紙7:7)
では、私たちは誰と結びついていたのでしょうか。おそらく、パウロは私たちの罪深い心を指しているのでしょう。
私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗し、自分の道を歩みたいと願っていました。生まれたときから、私たちはその心と結びついていました。
そして、その「結びつき」によって、私たちはどのような実を結んでいたでしょうか。私たちは、死に至る実を結んでいたのです。(ローマ人への手紙7:5)
さらに、私たちが罪深い心と結びついている限り、私たちはイエス様と結びつくことができませんでした。
しかし、神様が私たちを救ってくださったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけ、死に渡されました。
では、罪深い心が死んだことによって、何が起こったのでしょうか。
第一に、律法が私たちに対する力を失ったことです。夫が亡くなると結婚の律法が妻に対する効力を失うように、私たちの罪深い心が死ぬと、神様の律法は私たちに対する力を失います。
第二に、私たちの罪深い心が死んだことによって、私たちはイエス様と結びつくことができるようになったのです。
そして、私たちはイエス様との結びつきによって、もはや死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。
だからこそ、救いの道はイエス様だけなのです。
神様に反抗する心と結びついている限り、私たちは永遠の命に至る実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに植え付ける種は死へと向かいます。
それに対して、イエス様が私たちに植え付ける種は永遠の命へと至ります。
あなたは誰と結びついているでしょうか。