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ハガイ書

私たちの栄光がどこから来るか

以前のブログでも触れましたが、ソロモンの宮を目にした世代は、新しい宮の礎が据えられるのを見た時、涙を流しました。なぜなら、ソロモンの宮の栄光は、新しい宮の栄光よりもはるかに素晴らしかったからです。

さらに、ユダの民がその働きを再び始めた時、同じ世代は再び泣き始めました。そこで、預言者ハガイは彼らを励ましたのです

あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。

しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ――

エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ――

仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ――

あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(ハガイ書2:3ー5)

つまり、「失望しないでください。この宮について落胆しないでください。また、反対に直面する時も、気落ちしないでください。私があなたと共にいるからです。働き続け、私の宮を建てなさい。

あなたをエジプトから救い出した時、私は多くの約束をしました。その約束は決して変わりません。私はあなたをここまで導いた神です。私は変わらず、私の霊もあなたと共にいます。」

そして、神様はこう言われました。

まことに、万軍の主はこう仰せられる。

しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。

万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ――

この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ――」(6ー9)

これはメシヤ、つまりイエス様についての預言です。イエス様が来られる前、神様はすべての国々を揺り動かされました。すなわち、さまざまな帝国が繁栄したり衰退したりしました。

そして、すべての国々の宝であるイエス様が来られました。イエス様はその宮に入り、ご自身の栄光でその宮を満たされました。神様が人間として来られ、福音を述べ伝え、多くの奇跡を行われたのです。

そのイスラエルの年配の人々の考え方には誤りがありました。彼らは、宮の外見にばかり注目し、宮の栄光がその建材や装飾から来ていると考えたのです。

けれども、ソロモンの宮がいくら美しかったとしても、その栄光は銀や金、あるいは他の素材から来たものではありませんでした。その栄光は神様の臨在から来たのです。神様がその宮に来られたからこそ、その宮に栄光がありました。

確かに、ソロモンの宮は新しい宮よりも美しかったかもしれません。しかし、神様は人間としてその宮に入られることはありませんでした。一方、新しい宮にはイエス様が入られた時、その宮はさらに素晴らしい栄光を受けたのです。

同じように、私たちも自分の「宮」、つまり人生を見て、他の「宮」と比べると、がっかりすることがあるかもしれません。ほかの人が自分よりもハンサムだったり美人だったり、あるいは才能が豊かだったりするように見えることがあります。

けれども、あなたの栄光は外見や才能から来るものではありません。あなたの栄光は、あなたの心に住まわれるイエス様から来るのです。

ですから、他の人々と自分自身を比べないでください。そして、周りの人々があなたの神様への従順に反対するときにも、失望しないでください。強く、雄々しくありなさい。恐れることなく、神様があなたに与えられた働きを成し遂げなさい。

あなたをサタンの国から救い出し、奴隷の人生から解放された神様は、あなたと共におられ、決してあなたを見捨てられません。そして、神様は毎日ご自身のご計画の中で、あなたをますます素晴らしい宮へと変えてくださいます。

パウロはこう書きました。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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エゼキエル書

新しくなった

最近、私は出エジプト記25ー27章を読みました。

その箇所を「つまらない」と言いたくはありませんが、幕屋の作り方が非常に詳細に書かれているため、読んでいるうちに少し眠くなってしまいました。

このエゼキエル書の箇所は、その出エジプト記の箇所と非常に似ています。けれども、エゼキエルは幕屋についてではなく、将来の主の宮について語っています。

エゼキエルの時代、イスラエルの罪のゆえに、神様の聖霊はその宮を去られました。その結果、宮は間もなく倒れ、その栄光は失われてしまったのです。

しかし、その後、神様はエゼキエルに新しい宮に関する幻を見せられました。そして、神様はその宮の形を非常に具体的に説明されました。

43章では、エゼキエルは神様の栄光がその宮に戻る幻を見ました。

神様が東の方から宮を去られたように(10:18-19)、再び東の方から宮に戻り、その宮を神様の栄光で満たされたのです。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。

イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。。。

今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。(エゼキエル書43:7-9)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様との関係を持つために造られました。そして、聖霊の宮となるために造られたのです。

けれども、私たちの罪のために、その宮を汚してしまい、私たちは神様から離れてしまいました。その結果、私たちの人生はめちゃくちゃになってしまったのです。

それでも、私たちが神様に立ち帰るなら、神様は私たちの中からそのごみを取り除き、私たちを新しくしてくださいます。

神様はご自身の霊を私たちに注ぎ、最初から計画されていたように、私たちは神様の宮となるのです。

そして、神様がイスラエルの民に語られたことを、私たちにも語っておられます。パウロはこう書きました。

私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第二コリント6:16-18

また、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

イエス様の血によって、私たちは清められ、新しくされました。

ですから、私たちの罪を捨て、私たちを救ってくださった神様と共に歩みましょう。

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エゼキエル書

真の宮、神様の真の民

私が子供の頃、日曜学校で何度もこの言葉を聞きました。「教会は建物ではありません。教会は人々そのものです。」

確かにそれは真実ですが、完全な定義ではありません。教会とは、神に属する人々のことです。つまり、彼らの心は神様のものです。

残念なことに、イスラエル人の心は神様のものではありませんでした。

彼らは「神様の民」と呼ばれていましたが、神様に背を向け、偶像を礼拝しました。さらに、彼らはその偶像を神様の宮に置きました。

そのため、ついに神様はその宮を立ち去られました。ソロモン王がその宮を建ててからエゼキエルの時代まで、神様の臨在はそこにありました。(歴代誌第二5:14)

とはいえ、ソロモンの時代ですら、その宮は実際の神様の家ではありませんでした。その時、ソロモンはこう言いました。

それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(歴代誌第二6:18)

それでもソロモンは、神様がいつもその宮を見守り、その宮で捧げられる祈りを聞いてくださるように祈りました。(歴代誌第二6:20-42)

ソロモンが建てた宮は本当に素晴らしいものでした。その宮は栄光に満ちた場所でした。

しかし、イスラエルの罪と神様に対する不忠実によって、神様の臨在とその栄光はその宮から離れてしまいました。

11章では、私たちはイスラエル人の頑固さを目の当たりにします。

イスラエルのリーダーたちは頑なにこう言いました。「何も悪いことは起こらない。私たちは偉い人だから。」

そのため、神様は彼らを責められました。そして、しるしとして、神様はそのうちの一人を殺されました。

そのとき、エゼキエルは叫びました。

ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。(11:13)

けれども、神様はこう答えられました。「いいえ、そうではない。私はバビロンに追放されたイスラエル人と共にいます。」

エルサレムに残った人々は、追放された人々についてこのように言っていました。

主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。(11:15)

追放された人々は、もしかするとエレミヤの助言に従ったのかもしれません。つまり、彼らはバビロン人に降伏しました。(エレミヤ書27:17)

そのため、エルサレムに残った人々は彼らを売国奴だと考えた可能性があります。

エルサレムに残った人々は、神様が追放された人々を拒絶されたと思ったかもしれません。なぜなら、神様はイスラエル人にその土地を与えたのに、その「売国奴」はその土地を去ったからです。

ところが、エルサレムに残った人々は神様の民ではありませんでした。エレミヤは彼らに神様の言葉を伝えましたが、彼らはその言葉を拒絶しました。

むしろ、バビロンに行った人々こそが神様の民でした。神様は彼らについてこう言われました。

「神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」

それゆえ言え。

「神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。」(11:16ー17)

また、

わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。

わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。

こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(19ー20)

真の宮とは何でしょうか。それは建物ではありません。

では、神様の民とは誰でしょうか。ただ教会に通う人ではありません。また、ただクリスチャン・ホームで育った人でもありません。

神様の宮とは、神様が住んでおられるところです。神様の民とは、神様に属する人々のことです。

つまり、神様は彼らの心に住んでおられるのです。そして神様は彼らに新しく、柔らかい心を与えてくださいます。そのため、彼らは毎日神様に従います。

私たち一人ひとりに、そのような心を持つことができますように。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちの宮を清める

ヨアシュ王は、祭司エホヤダの訓練と影響を受けて、王として順調なスタートを切りました。

王となると、ヨアシュはすぐに宮の修復をしたいと考えました。

アハズヤがユダの王であった時、その母アタルヤの影響を受けていたのか、アハズヤとその兄弟たちは宮を打ち壊し、宮の聖なる品々をすべてバアルの礼拝に使用しました。(歴代誌第二24章7節)

その結果、宮は次第に荒廃していきました。そこで、ヨアシュは祭司たちに命じて、人々から資金を集め、宮の修理を行うように指示しました。

なぜ、あなたはレビ人に要求して、主のしもべモーセとイスラエルの集団の、あかしの天幕のための税金を、ユダとエルサレムから持って来させないのですか。(歴代誌第二24:6)

こうして、彼らはようやく修理に取りかかりました。

彼らは宮を修理しただけでなく、アハズヤが盗んだ物の代わりに新しい器具も作りました。

この箇所を見ると、私はこう考えます。「私たちは主の宮を十分に注意しているだろうか。」

もちろん、ここで私が話しているのは建物のことではありません。私たち自身の体について話しています。

なぜなら、パウロがこう言ったからです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第一コリント6:19)

罪によって私たちの宮はどのような霊的な損害を受けているのでしょうか。

私たちはその罪をそのまま残しているのでしょうか。

それとも、聖なる器となるために、その罪を清めているのでしょうか。

時々、この話の祭司たちのように、私たちは神様に仕えることに忙しくなってしまいます。

しかし、私たちが忘れてはならないのは、神様が最も関心を持っておられるのは、私たち自身のことだということです。

私たちが神様のために何かを成すこと以上に、神様は私たち自身を気にかけておられます。

神様は、宮が清められ、修復され、聖なるものとなることを望んでおられます。

私は「神様に仕えるには、完全に清められなければならない」と言っているのではありません。

けれども、「神の仕事」をしているからといって、自分自身の宮を顧みる時間がない、という態度をとってはいけません。

神様の最初の仕事はあなた自身です。

神様がまずあなたの中で働き、その後で、神様がどのようにしてあなたを用いるかを考え始められるのです。