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テモテへの手紙第ー

家庭で信仰を実践する

家庭において信仰を実践することは、何よりも大切なことだと思います。なぜなら、私たちは牧師や教会の兄姉に対しては、自分の本当の姿を隠すことができるかもしれませんが、家族にはそれが通用しません。

家族は、私たちの日々の言動を通して、本当の信仰の姿、本当の人柄を見るのです。家庭の中でこそ、私たちの心にあるものが現れるのです。

パウロもそのことをよく理解していました。彼がテモテに、やもめたちの支援について書いたとき、まずは彼女たちの家族に責任を果たすように命じたのです。

当時の教会は、やもめたちを積極的に支えていました(使徒の働き6章を参照)。けれども、家族がいる場合は、その家族がまず世話をすべきだとしたのです。

だからパウロは、テモテにこう語りました。

やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。(テモテへの手紙第一5:3)

それでもなお、パウロはさらにこう語っています。

もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。(4)

敬虔な人生とは、家庭の外だけで見せるものではありません。 私たちは、家庭の中においても敬虔に歩むべきなのです。友人や職場の同僚に対する態度と同じように、家族に対して敬愛を示さなければなりません。

この真理を、パウロは8節で明確に強調しています。

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。(8)

もちろん、パウロは、家族の物理的な必要に備えることについて語っています。しかし、敬虔とはそれだけに限られるものではありません。私たちはむしろ、家族に対する忍耐や親切、寛容、そして愛を通して、自分の敬虔さを表すのです。

簡潔に言えば、私たちが家族をどのように扱っているかによって、私たちの敬虔さが現れているのです。もし家族の前で信仰を実践していないとすれば、私たちの信仰とはいったい何なのでしょうか。

とはいえ、そのように生きることは容易ではありません。前回も触れたように、私たちは友人を選ぶことはできますが、家族を選ぶことはできません。

しかも、友人と違って、家族とは同じ屋根の下で生活しています。だから、逃げられないがゆえに、腹立たしく思ってしまうことも起こりやすいのです。加えて、私たちには家族に対する特別な責任があります。

それでも、もし私たちが敬虔な者になりたいと願うのであれば、 まずは家族の前で敬虔に歩むべきなのです。そうしてこそ、私たちは真の敬虔さを証ししていることになります。

あなたは、敬虔な者として歩んでいますか。

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マタイの福音書 マタイ10章

人々を分かつ剣

イエス様が迫害について話をまとめられた言葉を聞くと、違和感を覚えるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイの福音書10:34-36)

イエス様は「平和の君」と呼ばれます。

なぜイエス様は「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」と言われたのでしょうか。また、なぜイエス様は「剣のように家族を分かつ」と言われたのでしょうか。

もちろん、イエス様は平和の君です。そして、イエス様がこの世に再び戻り、すべてを治められるとき、真の平和が訪れるでしょう。とはいえ、その時はまだ来ていません。

だからこそ、イエス様は警告を繰り返されます。「もしあなたがイエス様に従うなら、あなたの家族でさえもあなたを拒絶するかもしれません。」

日本でも、私はそのような状況を目の当たりにしたことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに「もしクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。お前はもう俺の娘ではない」と言われたからです。

イエス様に従うことで、家族間の争いが生じることもあります。その時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

信仰を保ちながら、その信仰を隠すべきでしょうか。一部の人はそのようにしましたが、嘘が発覚すると、状況はさらに悪化しました。その上で、イエス様は次のように言われました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従っていると言えるでしょうか。

もし一生を通じてイエス様を否定し続けるなら、果たして自分自身がクリスチャンだと胸を張って言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱さを抱える時もあります。ペテロにも弱さがありました。彼はその弱さから、イエス様を三度も否定してしまいました。

けれども、最終的にペテロは自分の信仰のために十字架につけられて命を捧げました。

イエス様は次のように言われました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとってイエス様は何よりも大切な存在であるべきです。たとえどんなに苦しみを経験しても、イエス様をすべてのものよりも優先しなければなりません。

もし家族の平和を守るためにイエス様を否定するなら、最終的にその家族は地獄に行くことになるでしょう。

しかし、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかすると、いつの日か彼らがイエス様に従うようになるかもしれません。

この教えを実践することは簡単ではありません。

けれども、覚えておいてください。もし家族があなたを拒絶するとしても、あなたにはもう一つの家族があります。あなたが苦しむとき、その家族はあなたを愛し、支えてくれるでしょう。なぜなら、教会はただの建物ではなく、神の家族そのものだからです。

だからこそ、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定してはいけません。そしてイエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけることができます。

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マタイの福音書 マタイ12章 マルコの福音書 マルコ3章 ルカの福音書 ルカ8章

家族よりも親しい関係

私たちが愛する人々に自分のことを理解してもらえないのは、本当に苦しいことです。イエス様も、12歳の時に神殿でそのように感じられました。その時、イエス様の両親は彼のことを理解できなかったからです。

この箇所でも、イエス様の家族は彼のことを理解していませんでした。イエス様は神様の働きを一生懸命にしておられたので、食事をする時間すらありませんでした。そのため、イエス様の家族は、「イエスは気が狂ったのではないか」と思ったのです。

それで、彼らはイエス様を連れ戻しに出て来ました。ただ、イエス様の兄弟たちだけでなく、母マリヤも一緒に来ました。おそらくマリヤは、イエス様が気が狂ったとは考えなかったものの、彼の健康を心配していたのでしょう。

とにかく、大勢の人々が群がっており、イエス様の家族は彼のもとに直接行くことができなかったため、伝言を送りました。

イエス様は彼らの意図を理解されましたが、彼らのもとに行くことはされませんでした。その代わりに、彼はこう言われました。

わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。

「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:48-50)

また、

わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。(ルカ8:21)

時々、あなたが愛する人々は、あなたが神様の御心に従わないように説得しようとすることがあります。時には、彼らはあなたが気が狂ったと思うかもしれませんし、やりすぎていると感じることもあるでしょう。

しかし、覚えていてください。私たちは、彼らを喜ばせるために生きるのではなく、神様を喜ばせるために生きています。私たちは、神様の声に耳を傾け、神様の御心に従うべきです。

もちろん、私たちはバランスを取る必要があります。私たちは家族を愛し、敬うべきです。

また、神様が私たちに求めておられる以上のことをしてはいけません。なぜなら、それでは私たち自身が燃え尽きてしまうからです。

それでも、私たちは家族よりも神様を愛さなければなりません。神様の私たちに対するご計画と希望は、家族の希望よりも大切だからです。

あなたは神様をすべてよりも大切にしているでしょうか。それとも、あなたの家族があなたを神様の御心から引き離しているでしょうか。

そういうわけで、クリスチャンと結婚することが重要なのです。なぜなら、そうしないと、神様のご希望が配偶者の希望と対立する時に、大きな問題を引き起こす可能性があるからです。

また、たとえ配偶者が「私はクリスチャンだ」と言っていても、神様と共に歩んでおらず、神様の御心に従わないのであれば、それもまた大きな問題となります。

ですから、自分の心を神様にささげている人と結婚しましょう。そして、私たちのために死んで復活された方に、私たちの心と思いと力をささげましょう。

あなたの心は誰のものでしょうか。