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ヨハネの黙示録

教会で悪に目をつぶるとき

寛容。

かつてアメリカでは、その言葉には良い意味がありました。

本来の意味はこうです。たとえ誰かの意見に同意できなくても、その人をなお愛し、丁寧に語り合うことができる。それが「寛容」でした。

日本ではどうか分かりませんが、アメリカではこの言葉の意味が大きく変わってしまいました。

今では、「寛容」とは、絶対的な真理が存在しないという前提のもと、誰かの考えが間違っているとしても、それを指摘してはならないという意味になっているのです。

特に、「罪」という言葉は、時代遅れのものと見なされ、他者の罪を指摘することは「不寛容」だと受け止められがちです。

その結果、多くの教会が深刻な課題を抱えるようになりました。罪が教会に入り込んだとき、信者たちはそれを見て見ぬふりをするようになり、罪を容認する空気さえ生まれるのです。

誤解しないでください。もちろん、クリスチャンはノン・クリスチャンを歓迎すべきであり、彼らが救われるように努める必要があります。

けれども、多くの教会では、人の罪を見ても「それは罪ではない」と言い張ることがあります。

このような問題を、ペルガモンやティアティラの教会も抱えていました。

もちろん、これらの教会には良い点もありました。迫害を受けても、彼らはイエス様に忠実であり続けたのです。ティアティラのアンティパスが殺された時でさえ、教会の人々は主に従いました。(黙示録2:13)

また、ティアティラの教会はエペソの教会とは違って、イエス様への熱心を保っていました。実際、その熱心さは増し加わっていたのです。

しかし、両教会は、罪を見過ごしてしまうという罠に陥っていました。

ペルガモンの教会は、偽りの教えを信じる者たちを「寛容」と称して受け入れてしまいました。その結果、教会の人々は偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったのです。

イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野を旅していたとき、預言者バラムも彼らを同じ罪へと導きました。

バラムはイスラエルを呪おうとしましたが、神はそれを許しませんでした。そこでバラムは、イスラエルの男性たちがモアブの女性たちと結びつくように仕向けたのです。彼らはその助言に従い、最終的には偶像礼拝に落ち、神の呪いを受けてしまいました。

ペルガモンの教会の人々も、同じ罪に陥っていました。それにもかかわらず、教会のリーダーたちは何も対処しなかったのです。

ティアティラの教会も、ペルガモンと同じような問題を抱えていました。彼らは「預言者」と自称する女性を容認していました。イエス様はその女性を「イゼベル」と呼ばれました。

イスラエルの歴史において、王妃イゼベルは夫アハブ王を偶像礼拝へと導き、多くのイスラエル人を罪に陥らせました。

ティアティラの教会においても、イゼベルのような存在がサタンの深みを教え、教会の人々を偶像礼拝や性的な罪に誘っていたのです。(24)

そのため、イエス様は彼らに警告されました。「裁きは迫っている。」

ペルガモンの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「鋭い両刃の剣を持つ方」と呼ばれました。それは、裁きを表す剣です。(12、16)

ティアティラの教会に向けて挨拶されたとき、イエス様はご自身を「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子」と呼ばれました。イエス様は、暗闇にある悪を見通し、ご自身の足でそれを踏み砕かれるのです。(18)

イエス様はこう言われました。

見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。また、この女の子どもたちを死病で殺す。(黙示録2:22-23)

イエス様は、文字通り彼らを死に至らせる可能性について、警告されていたのでしょうか。おそらく、そうです。

使徒の働き(5:1〜10)、第一コリント(5:5)、そして第一コリント(11:27〜30)に、そのような例を見ることができます。

私たちは、悪に対して寛容になってしまうことがあるかもしれません。けれども、イエス様は、悪が教会の中に広がることを決して容認されません。

しかし、私たちが悪と戦い、それを乗り越えるなら、イエス様は約束されます。「隠されたマナ」と「白い石」を与えてくださるのです。(2:17)

ユダヤ人たちはこう信じていました。メシアが来られると、契約の箱が奇跡的に現れ、メシアの宴席で皆がマナを食べるようになる。

では、イエス様が「白い石」について語られたのは、なぜでしょうか。当時の競技において勝利した者は、特別な宴席への入場を許される「白い石」を与えられていました。

イエス様は、その2つの象徴を重ねて、約束の栄光を描かれたのです。

さらに、イエス様はティアティラの信徒たちにこう約束されました。イエス様が王としてこの世を支配するとき、彼らは国々を治める権威を受けるのです。さらに、イエス様は彼らに明けの明星を与えると約束されました。

イエス様ご自身が「明けの明星」と呼ばれているのです(黙示録22:16)。

それゆえ、イエス様はご自身との深い交わりを約束しておられるのでしょう。

しかし、悔い改めない者には、裁き以外に何も残されていません。

教会において、悪に目をつぶることは重大な問題です。やがて反キリストと偽預言者が現れると、その問題はさらに深刻になります。その時、この世が耐えられないものはただ一つです。それは、私たちが宣べ伝える福音です。

もし今、私たちが悪に目をつぶるなら、反キリストが現れた時、私たちはどうするのでしょうか。あなたと、あなたの教会はどうでしょうか。悪に目をつぶってはいませんか。

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コリント人への手紙第一

罪を容認し、誇る?

以前の記事で、私は「寛容」について述べました。「寛容」という言葉は、アメリカ人にとっては一種の合言葉のようなものです。

もちろん、ある意味で寛容は素晴らしいことです。たとえば、相手と意見が異なっていても、互いに尊敬し合い、良好な関係を築くことができるなら、それは非常に価値のあることです。

私たちクリスチャンは、当然ながらノン・クリスチャンに対して寛容であるべきです。彼らは私たちと同じ信仰を持っていないため、私たちと同じように振る舞うことは期待できません。

そのことを理解しつつ、彼らを愛し、共に時間を過ごし、福音を伝え、彼らのために祈るべきです。

イエス様はそのようにされました。イエス様は「罪びとの友」と呼ばれていました。実際、宗教的な人々が反感を抱くほど、イエス様は罪人たちと積極的に時間を過ごされました。

それでも、パウロははっきりと語ります。自らをクリスチャンだと主張しながら厚かましく罪を犯す者に対して、私たちは安易に寛容であってはなりません。

けれども、ある教会は「愛」と「受け入れ」という名のもとに、そうした振る舞いを許容してしまうことがあります。コリントの人々もそのようにしていたようです。

ある人は、自分をクリスチャンだと主張しながら、母と関係を持っていました。もしかすると、それは実の母ではなく義理の母だったかもしれません。一般のコリントの人々でも、そのような関係を容認していませんでした。

それでも、コリントの教会はこうした態度をとっていたようです。

「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許し、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、たとえ義理の母と関係を持っていたとしても、その人を受け入れます。」

この報告を聞いたパウロは、深く驚きました。そして、彼は次のように語りました。

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(コリント人への手紙第一5:6-8)

聖書では、パン種は罪の比喩とされています。そのため、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。

何百年後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて「これは私の体だ」と言われました。そのパンは、イエス様の罪のない人生を象徴しています。イエス様は罪を犯さなかったにもかかわらず、私たちのために命を捧げてくださいました。

そこで、パウロはコリントの人々に次のように語りました。

「もしその罪を放置すれば、やがて教会全体に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましく罪を犯しているにもかかわらず、あなたたちがその振る舞いを容認するなら、他の人々もその模範に倣い始めるでしょう。」

だから、その悪意と邪悪のパン種を取り除き、誠実と真実に満ちた教会となりなさい。

パウロはさらに続けて語りました。

私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)

それは厳しい言葉です。多くの教会は今日、その言葉を愛の言葉とは見なしません。けれども、パウロの言葉は極めて明確です。

ただし、注意が必要です。パウロは、ノン・クリスチャンの罪人と、厚かましく罪を犯すクリスチャンを区別しています。

パウロは次のように語りました。

外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)

あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)

そしてパウロはこう言います。

外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)」

教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。当然です。

しかし、愛の名のもとに、クリスチャンの厚かましい罪を許容すべきでしょうか。それは許されることではありません。

それでも、明日、私はさらに詳しく説明することがあると思います。どうぞお楽しみに。