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イザヤ書

新しい名前

あなたは自分の名前を変えたいと思ったことがありますか。私は子供の頃、そう思ったことがあります。

なぜなら、「Bruce」という名前は、たくさんの言葉と韻を踏むからです。例えば、「goose」「loose」「moose」「juice」などです。そのため、友達はいつも私をからかっていました。

ところで、イスラエル人もさまざまな名前で呼ばれていました。彼らが追放された時、周りの人々はイスラエル人を「見捨てられている人」と呼び、その国を「荒れ果てている国」と呼びました。

けれども、この箇所では、神様はこう言われました。

シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。(イザヤ書62:1-2)

その新しい名前は何でしょうか。

あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。

かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。(4)

神様がこう言われました。「あなたは私に捨てられたと思っているかもしれません。あなたの国が荒れ果てていると思っているかもしれません。しかし、ある日、私はもう一度あなたを喜びます。もう一度、あなたは私の愛する花嫁となるのです。」

そして、神様はこう言われました。

見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある」と。

彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」(11-12)

つまり、「あなたは神様に捨てられた都市と呼ばれることはありません。むしろ、『神様の聖なる民』、『主に贖われたもの』、そして『尋ね求められるもの』と呼ばれるのです。」

神様は私たちにもそれらの名前を与えてくださいます。けれども、それらの名前は何を意味するのでしょうか。

神様の聖なる民。

聖なるというのは、神様のために聖別されたものという意味です。つまり、私たちは神様の尊い民です。

主に贖われたもの。

贖うというのは、失ったものをもう一度買い戻すという意味です。神様は私たちを造られたので、私たちは本来神様のものでした。しかし、私たちは自分自身を罪の奴隷として売り、サタンの国の囚人となりました。

それでも、神様は私たちを愛し、贖ってくださいました。神様はイエス様の十字架で流された血によって、私たちの罪の代価を支払われたのです。だからこそ、私たちはもう一度神様のものとなりました。

尋ね求められるもの。

私たちが罪に落ちた時、神様は私たちを捨てませんでした。むしろ、羊飼いが迷った羊を探すように、神様は私たちを探してくださいました。イエス様はこう言われました。

もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。(マタイ18:12)

そのように、イエス様は私たちを探してくださいました。イエス様はそのように私たちを愛しておられます。

あなたは神様に捨てられたと思いますか。拒絶されたと感じますか。神様はあなたのために新しい名前を用意されています。

「尋ね求められるもの。」

「贖われたもの。」

「尊い、聖別された者。」

「愛する花嫁。」

「神様の喜び。」

あなたがクリスチャンであるなら、それらはすでにあなたの名前です。神様に属する者として、それらはあなたの名前です。

だから、サタンの嘘を信じないでください。例えば、「神様はあなたを嫌っている」とか、「神様はあなたを見捨てた」などの嘘です。

神様はすでにあなたに新しい名前を与えてくださいました。その名前について深く考え、そして神様の愛に安心してください。

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、神様は今もあなたを尋ね求めておられます。あなたが誰であっても、どのように呼ばれていようとも、神様はあなたのために新しい名前を用意されています。あなたが神様に向かう時、その名前を受け取ることができます。

もしそうしたいと願うなら、この祈りを祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉によれば、あなたは私を尋ね求めておられます。また、イエス様は十字架で私を贖ってくださいました。そのことを感謝します。どうか私の罪を赦してください。

私を清めてください。私の人生に来てください。私をあなたの花嫁としてください。私をあなたの喜びとしてくださいますように。毎日、私にあなたのことを教えてください。アーメン。

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尊い

多分イザヤ書43:1-13が私の一番好きな聖書の箇所です。

だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43:1-3)

私たちの創造者が語られた言葉を深く心に留めましょう。

「私はあなたを贖ったのだ。」

イスラエルの民がこの言葉を聞いた時、彼らの心はエジプトからの救いへと思いを馳せていたでしょう。かつて、彼らはエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様は彼らを解放し、約束の地へと導かれました。

しかし、この言葉には、私たちにとってさらに深い意味があります。キリストの十字架を通して、私たちは罪の罰から贖われました。イエス様の流された血によって、私たちは赦されたのです。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたは取るに足りない存在ではありません。神様はあなたの名前をよく知っておられます。神様があなたを見て、こう言われます。「あなたは私のものだ。あなたは私が愛している子だ。」

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり…」

イエス様が語っておられるのは、こういうことです。

「たとえ人生の海が深く、あなたがパニックに陥る時があっても、私はペテロとともにいたように、あなたと共にいます。私はあなたの手を取り、波の上を導くのです。」

川を渡るときも、あなたは押し流されることはない。火の中を歩いても、あなたは焼かれることはなく、炎があなたを燃えつくすこともない。

つまり、どのような試練を経験しても、神様を信頼するならば、あなたは必ず乗り越えることができるのです。

そして、神様はこう語られました。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(4)

これはおそらく預言の一つでしょう。つまり、イスラエルの追放の後に、ペルシアがイスラエルの民を自分たちの土地に帰らせるようにするため、神様がエジプトや他の国々をペルシアに与えるという意味だと思われます。

とはいえ、これが私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。

神様は、私たちが高価で尊い存在だと思われたからこそ、イエス様をこの世に送られました。そして、イエス様は私たちの代わりに十字架で死なれました。神様が私たちを深く愛しておられるゆえに、イエス様は私たちの罪のために命を捧げられたのです。

さらに、神様はイスラエルの民にこのように約束されました。 「あなたがたが国々の民の中に散らされても、私はあなたがたをイスラエルに帰らせる。」

神様は私たちにも同じように語られます。たとえ私たちが神様からどれほど離れてしまったとしても、また私たちの人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様に立ち返るならば、神様は私たちをもう一度迎え入れてくださいます。

私たちの霊的な目が長い間神様を見ず、耳が神様の声を聞かなかったとしても、それでも神様は私たちを受け入れてくださるのです。(8)

そして今、神様は私たちを神様の証人として呼び出しておられます。

神様は私たちが救いの中で安住するだけで満足してほしいとは望んでおられません。むしろ、その救いを世界の果てまでも伝える使命を担ってほしいと望んでおられます。

神様はこう語られます。

あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。(10)

私たちへのメッセージは何でしょうか。

わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。(10-11)

イエス様は同じようなことを言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ですから、神様の尊い愛されている子供たちとして、この世界が救われるために、そのメッセージを伝えていきましょう。