カテゴリー
テモテへの手紙第ー

神の家族として生きる

牧師として、テモテは自分とは異なる年齢層の人々と接しなければなりませんでした。年上の人々、年下の人々、そして同世代の人々に対しても、慎みと知恵をもって関わる必要があったのです。

そこでパウロは、テモテにこう思い出させました。「あなたは彼らの主ではありません。彼らは、あなたが仕えている神の家族なのです。だからこそ、家族として尊敬と愛をもって接しなさい。」

そしてパウロは、こう語ったのです。

年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。

若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように真に純粋な心で勧めなさい。(テモテへの手紙第一5:1-2)

テモテは時に、年配の男性たちを訓戒しなければなりませんでした。パウロは、決して彼らを叱ってはならないと語ったわけではありません。

それでも、偉そうな態度で相手を辱めるような言い方をしてはなりませんでした。むしろ、父親に接するように、深い敬意をもって語るべきだったのです。

同じように、年配の女性たちには母親のように接し、彼女たちを尊び、やさしさをもって扱わなければなりませんでした。

また、若い男性たちに対しては、上から接するのではなく、兄弟として扱わなければなりませんでした。

若い女性たちを扱う時、テモテは注意深く行動しなければなりませんでした。もしかすると、ある女性たちはテモテに惹かれていたかもしれません。

だからこそ、テモテは自分の立場を決して乱用することなく、彼女たちを姉妹として扱わなければなりませんでした。

しかし、これは牧師だけでなく、教会全体にも当てはまります。 私たちは皆、神様の家族に属していることを忘れてはなりません。

私たちは友人を選ぶことはできますが、家族は選べません。そしてキリストにあって、私たちは一つの家族なのです。

ですから、あなたの姉妹や兄弟を見下してはなりません。むしろ、純潔をもって彼らを尊び、何よりも、愛をもって彼らと接しましょう。

あなたは、自分の家族をどのように扱っていますか。

カテゴリー
テサロニケ人への手紙第一

クリスチャンとして、目立つ理由は?

「偽善者」。

日本ではどうか分かりませんが、欧米の多くの国々では、 クリスチャンはしばしば「偽善者」と呼ばれます。

残念なことですが、多くのクリスチャンたちは、その評判に値してしまっています。

パウロの時代にも、偽善的なクリスチャンたちがいました。 彼らの生活によって、イエス様の御名が汚されてしまったのです。 そのため、パウロはテサロニケの人々に、そのことについて書き送りました。

第4章でパウロは、私たちが神様を喜ばせるように、どのように生きるべきかを教えています。 前回の記事では、私たちが神様のための聖なる宮となることについて取り上げました。

現代と同じように、その時代にも性的な罪が多くありました。 だから、パウロは、彼らのからだが神様の宮であることを思い起こさせ、 その宮を汚さないようにと、性的な清さを守るように促したのです。

清さを失った生き方を選べば、私たちはこの社会に自然と溶け込んでしまいます。 けれども神様は、私たちがこの世に同化するのではなく、 その中で目立つ者として生きるように呼んでおられます。

そして、パウロはこの世の中で目立つためのもう一つの方法を示しています。 彼はこう語っています。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:9-10)

この世界の人々は、情欲についてはよく理解しています。 けれども、愛についてはあまり分かっていないため、 彼らはその一生を通して、愛を追い求め続けるのです。

だからこそ、イエス様はクリスチャンたちにこう語られました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

私たちがキリストの教会として、互いに愛し合うとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

何年経っても、クリスチャンの夫婦がなお愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

性格も背景も異なる人々が、教会で互いに愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

クリスチャンたちが、苦しんでいる人々に愛をもって触れるとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。

なぜでしょうか。 それは、クリスチャンたちが、ノンクリスチャンたちの持たないものを持っているからです。

そういうわけで、パウロはテサロニケの人々にこう語っています。

「あなたがたが互いに愛し合っていることは、素晴らしいことです。 けれども、さらに豊かに愛し合いなさい。 あなたがたの愛を通して、あなたがたの光を輝かせなさい。」

それでも、テサロニケの教会には、ある問題がありました。

主がすぐに戻られると信じていた一部の人々は、 「なぜ働く必要があるのか」と考え、 働かずに、他のクリスチャンたちから食べ物やお金を受け取るようになっていたのです。

まるでヒルのように振る舞いながら、 彼らはその生き方によって、イエス様の御名を汚してしまっていました。

だから、パウロは彼らにこう語ったのです。

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。

外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。(11-12)

ヒルのような生き方では、私たちはイエス様の光を輝かせることはできません。 ヒルを好む人など、誰もいないのです。

それだけではなく、第2テサロニケによれば、あるクリスチャンたちは、 おせっかいばかりしていました。 その姿を見て、周りの人々は「本当にあれがクリスチャンなのか」と思ったのです。

だから、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。 「働きなさい。ヒルのようになってはいけません。 きちんと働けば、周りのノンクリスチャンたちはあなたを尊敬するようになるでしょう。」

あなたはどうでしょうか。 人々があなたを見たとき、そこにどんな人を見出すでしょうか。

キリストの愛に満ちた人でしょうか。 誠実に働く、勤勉な人でしょうか。

あなたは今、良い理由で目立っているでしょうか。

カテゴリー
エステル記

周りの人の利益のために働く

エステル記10章には、アハシュエロス王とモルデカイの偉大さが描かれています。特に私の心を打つのは、3節です。

それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったから、自分の全民族に平和を語ったからである。(エステル記10:3)

多くの人々は、特権を得るためにリーダーになりたいと考えます。彼らは人に仕えられることを望みます。

もちろん、モルデカイは特権を得ましたし、人に仕えられました。しかし、彼にとって「リーダー」というのはもっと深い意味を持っていました。

つまり、本当のリーダーは人に仕えるのです。本当のリーダーは自分の利益だけを求めず、周りの人々の利益を求めるのです。本当のリーダーはその人々の世話をするのです。

エステル記4章には、モルデカイがエステルにそのように教えた記述があります。また、リーダーとしてモルデカイはそのように生きていました。

あなたはどうでしょうか。夫として、親として、教師として、上司として、リーダーとして、どのように生きていますか。自分のために生きていますか。周りの人々にあなたを尊敬するよう求めていますか。

それとも、周りの人々の利益のために働いていますか。

モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったことで尊敬されました。

私たちは周りの人々に尊敬を自分から要求することはできません。もし尊敬されたいのであれば、それを得るために行動しなければなりません。

もし、イエス様のように彼らを愛し、彼らの世話をするならば、その尊敬を得ることができるでしょう。

パウロはこう書きました。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(ピリピ2:3-4)

カテゴリー
エステル記

権威のある人を尊敬する

昨日のブログを読んだ方は、私がエステルとモルデカイをあまり尊敬していないと思われるかもしれません。けれども、実際には、私は彼らを本当に尊敬しています。

彼らのすべての決断に同意するわけではないかもしれませんが、彼らは本当に素晴らしい性格を持っていたと思います。アブラハムやダビデ、パウロのように、時々彼らは誤った決断をしたことがありましたが、それでも彼らは神様を心から愛していたと思います。

この箇所では、私たちはモルデカイの性格を伺うことができます。彼は王を暗殺する計画を耳にしたため、エステルに警告しました。その警告によって、悪者たちが捕らえられました。

モルデカイはアハシュエロス王についてどのように考えていたのでしょうか。モルデカイは、以前の女王に対するアハシュエロスの態度を知っていただけでなく、すべての女性に対する彼の態度も知っていました。(その「女王のコンテスト」の時、アハシュエロスは何人と寝たのでしょうか。)

さらに、アハシュエロス王は神様を恐れていませんでしたし、世の歴史書によれば、彼は平和を愛する人物でもありませんでした。

それにもかかわらず、暗殺者とは異なり、モルデカイは王の地位を尊重しました。したがって、暗殺計画を耳にしたとき、彼はすぐにエステルにそのことを警告しました。

モルデカイは王の命を救いましたが、その後も長い間、王は彼に報酬を与えませんでした。それでも、モルデカイは苦々しい心を抱きませんでした。彼にとって最も重要だったのは、権威のある人物を敬うことでした。

ペテロはこう書きました。

すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(第一ペテロ2:17)

時々、私たちは権威のある人が私たちの尊敬に値しないと思うことがあります。そのため、私たちの大統領や総理大臣、または上司について文句を言うことがあります。

しかし、神様は私たちが彼らを尊敬するように命じられています。それはなぜでしょうか。パウロはこう書きました。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)

つまり、神様の御心によって彼らが権威を持つので、あなたが神様を恐れるなら、その人々を尊敬すべきです。

あなたはどうでしょうか。権威のある人を尊敬して従うことができるでしょうか。それとも、尊敬しにくいと感じる人がいるでしょうか。

もちろん、その人を尊敬できるなら、従うことは簡単です。しかし、あなたが神様を恐れるなら、神様はその人に従うように命じられます。

それは難しいことかもしれません。それでも、神様を恐れて、権威のある人を尊敬し、従いましょう。

カテゴリー
エステル記

妻を尊敬する

今日からエステル記を読みます。

実は、聖書を年代順に見た時、エステル記の出来事がエズラとネヘミヤの時代に起こったと知り、私は驚きました。

それまで、これらの出来事がエズラとネヘミヤの時代の後に起こったと思っていたのです。

でも、たぶんこのアハシュエロス王はエズラ4章のアハシュエロスです。

(聖書学者の間ではそれが議論になっています。エステル記のアハシュエロスがアルタクセルクセス1世だと思う学者もいれば、彼がアルタクセルクセス2世だと思う学者もいます。以前言ったように、私はアハシュエロスがクセルクセス1世だと思います。)

とにかく、この箇所では、エステルの話の背景について読みます。つまり、どうしてアハシュエロスに新しい女王が必要だったのか、ということです。

アハシュエロスはすべての首長と家臣たちのために宴会を催しました。なぜなら、彼はその人々を自分の富と力で感動させたかったからです。

そして彼は、その人々に女王の美しさを見せるために彼女を呼びました。しかし、女王は来ることを拒絶したため、彼は恥ずかしい思いをしました。

アハシュエロスが知恵のある者たちに相談した時、彼らはこう答えました。

王妃ワシュティは王ひとりにではなく、すべての首長とアハシュエロス王のすべての州の全住民にも悪いことをしました。

なぜなら、王妃の行ないが女たちみなに知れ渡り、『アハシュエロス王が王妃ワシュティに王の前に来るようにと命じたが、来なかった』と言って、女たちは自分の夫を軽く見るようになるでしょう。

きょうにでも、王妃のことを聞いたペルシヤとメディヤの首長の夫人たちは、王のすべての首長たちに、このことを言って、ひどい軽蔑と怒りが起こることでしょう。(エステル記1:16-18)

だから、彼らはこう助言しました。

もしも王によろしければ、ワシュティはアハシュエロス王の前に出てはならないという勅令をご自身で出し、ペルシヤとメディヤの法令の中に書き入れて、変更することのないようにし、王は王妃の位を彼女よりもすぐれた婦人に授けてください。

王が出される詔勅が、この大きな王国の隅々まで告げ知らされると、女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を尊敬するようになりましょう。(19-20)

アハシュエロスは賛成したので、「男子はみな、一家の主人となること…を命じた。」(22)

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

多くの夫たちは妻たちを人間としてではなく、物として扱っています。それに、彼らは聖書から引用して、妻たちからの尊敬を要求します。

もちろん、神様は妻たちが夫たちを尊敬することを命じられています。しかし、夫はどうやって妻が自分たちを扱っているかを考えるよりも、どうやって自分たちが妻を扱っているかを考えるべきです。

神様が命じられているように、夫がイエス様のようなリーダーとなるなら(エペソ5:25-28)、妻が夫を尊敬することは当然のこととなるでしょう。

もし、あなたが妻を物としてではなく、貴い人として扱い、自分のニーズを彼女のために犠牲にし、キリストの愛で彼女を愛するなら、どう反応すると思いますか。

多くの結婚は負のスパイラルにはまってしまっています。

夫たちが妻たちを愛さないために、妻たちは夫たちを尊敬しません。そして、夫たちが尊敬されていないために、妻たちへの愛がさらに少なくなります。

その結果、妻たちの夫たちへの尊敬もますます少なくなります。このようにして状態がさらに悪化し、最終的には離婚に至る場合もあります。

夫よ。もし、その負のスパイラルにはまってしまったなら、リーダーとして、そのスパイラルを止める責任があります。それは神様が命じられていることです。

ですから、妻に尊敬されていないのであれば、妻にもっと愛を示してください。そうすることで、きっと彼女はあなたをさらに尊敬し始めるでしょう。

とはいえ、もしお互いに深い傷がある場合、癒しには時間がかかるかもしれません。

妻は、「夫がこのように愛を示すのはどれくらい続くだろうか。一時的なものなのだろうか。これまで私を傷つけてきたのに、彼を信頼してもよいのだろうか。」と思うかもしれません。

それでも、諦めないでください。妻の信頼を得るために努力を続けてください。

もしかすると、自分のプライドを捨てて、こう謝らなくてはならないかもしれません。「今まで、神様が命じられたようにあなたを愛していませんでした。申し訳ありません。」

そして、神様の助けを求めてください。

妻よ。この文章を読んで、神様がその負のスパイラルを止めることをあなたに命じられている、と感じるかもしれません。それは簡単なことではありません。時々、私たち男性は自己中心的で、頑固です。

それでも、どうか夫のために祈ってください。そして、小さなことでも、夫について尊敬できる点を探してください。見つけられない場合には祈ってください。神様が示してくださいます。

そして、その尊敬を言葉で夫に表現してください。驚かれるかもしれませんが、ほんの小さなことが大きな変化をもたらすことがあります。