福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。
イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。
さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。
弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。
そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。
ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。
実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。
もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)
そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。
いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。
イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)
弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。
先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)
ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。
これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)
その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。
起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)
彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。
そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。
人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)
どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。
けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。
彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。
それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)
ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。
しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。
あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。
