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イエス様を疑う?

この箇所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

1つ目は、イエス様がご自身の人生のバランスを保たれたということです。周りの人々のニーズに応えるためにご自身のニーズを犠牲にされたこともありましたが、イエス様は天の父と共に過ごす時間を最優先されました。

もしイエス様がその時間を優先されたなら、私たちもそうすべきではないでしょうか。

いずれにせよ、イエス様が山におられる間、弟子たちが海で苦しんでいるのをご覧になりました。それでもイエス様は3時から6時ごろまで待ってから彼らのところに向かわれました。

同じように、私たちが苦しんでいても、イエス様は時に待っておられることがあります。それは、イエス様が私たちを見放したということではありません。イエス様は私たちを見守っておられるのです。

ただし、イエス様はその試練を許されます。なぜなら、イエス様はご自身が見えなくても、私たちがどれほど信頼しているかを知りたいからです。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言われました。しかし、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚え、信じていたのでしょうか。

そしてイエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとされました。弟子たちがイエス様を見たとき、彼らは恐れて、イエス様を幽霊だと思いました。けれども、イエス様は彼らに言われました。「心配しないで。私だよ。」

ペテロはイエス様のところに行こうと思い、湖の上を歩き始めました。ところが、風と波を見たとき、ペテロはパニックになり沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みを持ってペテロを救われましたが、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

とはいえ、この話の最後を読むとき、薄い信仰を持っていたのはペテロだけではなかったことが分かります。イエス様が舟に乗り込まれると、風がすぐにやみました。弟子たちはそれを見て非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は、私の心を何よりも強く打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味を理解していませんでした。何がわからなかったのでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛しておられ、彼らのニーズに応えてくださること。

2.イエス様が彼らのニーズに応える力を持っておられること。

ペテロが海の上を歩いたとき、最初は全く問題ありませんでした。しかし、彼がイエス様から目を離し、周りの波や風を見たとき、困惑してしまいました。

どれほど私たちも同じことをしているでしょうか。私たちは自分の境遇に集中しすぎて、イエス様から目を離してしまい、イエス様の愛と力を忘れてしまうことがあります。その結果、私たちは疑って沈み始めるのです。

実際、私もそうしてしまうことがあります。だから、一緒に祈りませんか。

主よ。あなたは私のために多くのことをしてくださいました。私はあなたの善さを見ました。あなたの愛を感じました。あなたの力を経験しました。それなのになぜか、私はまだ疑っています。

どうか、私の信仰を強めてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの奇跡の意味を理解できるように助けてください。あなたの愛と力を深く理解できるようにしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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詩篇

大いなる神、あなたを愛する神

多くの人々は私がちょっとおかしいと思うかもしれませんが、私は雷雨が大好きです。稲妻が光るのと雷が鳴るのがかっこいいと思うからです。(もちろん、その時、家にいたいですが。)😊

とにかく、英語の聖書を読むと、興味深いことが書かれていました。この詩篇は、「雷雨の歌」と呼ばれます。雷雨の時、この歌が歌われ、詩人はノアと洪水の話を思い出しました。

詩篇29篇では、神様の偉大さが見えると思います。

最初にダビデは、私たち皆が主を礼拝するように呼びかけます。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。

御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。(詩篇29:1-2)

つまり、「神様の栄光と力を認めなさい。神様が値する栄光を認めなさい。主をほめたたえなさい。」ということです。

日本語では、「聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ」と翻訳されています。ある英語の聖書も、この箇所はそのように翻訳されています。

しかし、この箇所を翻訳する方法がもう一つあります。それは、「神様の聖なるさの美しさのために、主をほめたたえなさい」ということです。

どれほど、私たちは神様の聖なるさの美しさについて考えているでしょうか。けれども、神様の聖さを見るなら、多分、私たちは「美しい」としか言えないでしょう。

実は、私たちは神様の形として造られました。残念なことですが、今、私たちの罪によって、その形は歪んでいます。それでも、周りの人々を見るなら、時々、その美しさがちらりと見えます。

しかし、神様を見る時、そこには罪の染みがないので、神様は本当に美しい方です。

そして、ダビデは自然を見る時、雷雨の中で神様を見ます。神様の荒れ狂う御声を聞き、その声の力と尊厳を見ます。つまり、稲妻が光り、雷が鳴って、地が揺れ、大きな木が引き裂かれ、その木が裸にされ、その葉と枝が風の中で踊っているのを見ます。

ダビデはその「声」を聞くと、他の声を聞くことを想像します。つまり、天使の声が天の宮で響いて、「栄光」と呼んで、神様を礼拝します。

けれども、私の心を打つのは、ダビデの最後の言葉です。

主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(11)

どうして、その個所は私の心を打つのでしょうか。なぜなら、この大いなる神、この聖なる神、この全能の神は、私を愛しておられるからです。

神様は私を愛しておられるので、私が弱い時に、力を与えてくださいます。私が心配する時、私が恐れる時、神様は私に平和を与えてくださいます。

私が弱い時、神様は強いです。

ある英語の翻訳では、このように書かれています。

主は、ご自身の民に強硬な力、また、決して壊れない力をお与えになる。

主よ。あなたは大いなる神です。あなたは全能の神です。あなたは聖なる神です。けれども、あなたは私を愛しておられます。そのことを感謝します。

私が小さく、取るに足りない人間なのに、あなたにとっては、私は大事な存在です。だから、あなたは、この世に来て、私の罪のために死んでくださいました。

私が弱い時、あなたが私の力でいてくださいますように。私が嵐の中にいて恐れる時、あなたの平安を与えてください。

あなたを愛しています。主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン。