詩篇84篇は本当に美しい歌だと思います。私が大好きな詩篇の一つです。この詩篇で、私たちはこの世の物に照準を合わせずに、永遠の物に照準を合わせるように励まされます。
この詩篇はエルサレムに巡礼する喜びを言い表していますが、私たちの新しいエルサレムへの巡礼とも関連があります。
詩人は歌います。
万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(詩篇84:1-2)
私たちはそのような態度を持って、神様と歩みたいです。神様を恋い慕う心が欲しいです。けれども時々、私の魂は乾きます。
だから、その時、今でも、私は祈ります。「主よ。あなたを慕います。あなたの臨在をもっと知りたいです。あなたのみ前にいたいです。」
この詩人はそのように祈りました。
私は3節も好きです。
雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。(3)
この箇所を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)
もし、神様が雀を主の家に歓迎したら、神様は私たちも歓迎してくださるのではないでしょうか。
そして、詩人は礼拝の喜びを言い表します。
なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(4)
そして、詩人は神様の家への巡礼について考え始めます。彼は歌います。
なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。
二つのことが私の心を打ちます。
一つ目は、彼らは現在どこにいるかに焦点を当てずに、どこに行くかに照準を合わせたということです。
クリスチャンとして、私たちもそうするべきです。この世は私たちの住まいではありません。だから、私たちは永遠の住まいに照準を合わせるべきです。
二つ目は、新しいエルサレムに巡礼するとき、自分の力ではなく、神様の力によって行くべきだということです。私たちは自分の力ではできません。神様の力が必要です。
6節で、詩人は歌います。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(6)
この世では、私たちは時々涙の谷を過ぎます。私たちは痛みや愛する人の死を経験します。けれども、神様はその場所を泉の湧く所とされます。恵みの雨がその痛みと苦しみを覆って癒します。
だから、
彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(7)
イザヤはこう書きました。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)
だから、詩人は神様に叫びます。
万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ
神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。(8-9)
この箇所では、詩人は王のために祈りました。その王はイスラエルの盾でした。
しかし、私たちクリスチャンにとって、その王はイエス様です。この世で、イエス様は私たちの盾です。
最後に、詩人は礼拝者の祝福と喜びについて歌います。
まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。
まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。
万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。(10-12)
私たちはただ旅人です。この世の物は将来の栄光の影だけです。
だから、一時的なものに照準を合わせずに、神様に照準を合わせましょう。
あなたはどこに照準を合わせていますか。