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詩篇のデボーション

主と共に歩む巡礼

詩篇121篇のタイトル(実は、121篇から134篇までのタイトル)は、「都上りの歌」です。

ユダヤ人たちはエルサレムに巡礼したとき、この歌を歌いました。

でも、私たちも巡礼の旅の途中にいます。私たちは新しいエルサレムに向かって巡礼しています。(黙示録21:2)

この巡礼は長い旅です。私たちがクリスチャンになった瞬間に、神様に天国へ連れていかれたわけではありません。

この旅は時に辛く、私たちは苦しむこともあります。でも、この詩篇は、私たちの助けがどこから来るのかを思い出させます。

天地を造られたお方が、私たちと共におられるのです。(2)

また、神様はまどろむこともなく、眠ることもありません。(4)

ですから、何が起こっても、神様の御手は毎日、私たちの上に置かれているのです。

この詩篇を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。(ヨハネ14:18)

また、イエス様が弟子たちのために、そして私たちのために祈られたことは、この詩篇の内容を反映しています。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。。。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:11、15)

もちろん、私たちが決して苦しまないというわけではありません。イエス様の弟子たちの多くが自分の信仰のために殺されました。

でも、神様はいつも私たちと共に歩んでおられます。神様が私たちを見捨てることはありません。

そして、最終的に、神様は私たちを主の家に導いてくださいます。

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私たちを見守る神

詩篇121篇は本当に美しい詩篇です。私の父が生前、この詩篇が大好きだったので、彼が亡くなった時、葬式でこの詩篇が読まれました。

この詩篇では、詩人は主に対する信頼を言い表しています。彼は歌います。

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。(詩篇121:1-2)

120篇のように、これは都上りの歌です。人々はエルサレムに巡礼するときにこの歌を歌いました。

だから、彼らが目を上げてエルサレムを見るとき、心の中で喜びが湧いてきたことが想像できます。なぜなら、神様がソロモン王に約束したように、神様の臨在は主の宮にあったからです。(列王記9:4)

もちろん、主の宮は神様をお入れすることはできませんでした。ソロモンもそのことを認めました。

でも神様は、宮に来てイスラエル人に会うように約束してくださいました。また、彼らが宮に向かい、祈るとき、神様はその祈りに答えるように約束してくださいました。

だから、人々がエルサレムに巡礼したとき、決して眠らない神様が彼らを見守ってくださることを思い出して、慰められました。

暑い日には、神様は彼らの陰でした。また夜には、神様は彼らを守ってくださいました。

それだけでなく、彼らの人生を送る間に、神様が彼らと共におられることを思い出していました。

だから、詩人はこう歌いました。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(7-8)

私たちもその言葉によって慰められましょう。何が起きても、神様はあなたを「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。」(第一コリント10:13)

私たちがこの世界に生きる間に、神様は私たちを見守ってくださいます。そして、私たちを栄光に導いてくださるのです。

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永遠の物に照準を合わせる

詩篇84篇は本当に美しい歌だと思います。私が大好きな詩篇の一つです。この詩篇で、私たちはこの世の物に照準を合わせずに、永遠の物に照準を合わせるように励まされます。

この詩篇はエルサレムに巡礼する喜びを言い表していますが、私たちの新しいエルサレムへの巡礼とも関連があります。

詩人は歌います。

万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(詩篇84:1-2)

私たちはそのような態度を持って、神様と歩みたいです。神様を恋い慕う心が欲しいです。けれども時々、私の魂は乾きます。

だから、その時、今でも、私は祈ります。「主よ。あなたを慕います。あなたの臨在をもっと知りたいです。あなたのみ前にいたいです。」

この詩人はそのように祈りました。

私は3節も好きです。

雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。(3)

この箇所を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29-31)

もし、神様が雀を主の家に歓迎したら、神様は私たちも歓迎してくださるのではないでしょうか。

そして、詩人は礼拝の喜びを言い表します。

なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。(4)

そして、詩人は神様の家への巡礼について考え始めます。彼は歌います。

なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

二つのことが私の心を打ちます。

一つ目は、彼らは現在どこにいるかに焦点を当てずに、どこに行くかに照準を合わせたということです。

クリスチャンとして、私たちもそうするべきです。この世は私たちの住まいではありません。だから、私たちは永遠の住まいに照準を合わせるべきです。

二つ目は、新しいエルサレムに巡礼するとき、自分の力ではなく、神様の力によって行くべきだということです。私たちは自分の力ではできません。神様の力が必要です。

6節で、詩人は歌います。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(6)

この世では、私たちは時々涙の谷を過ぎます。私たちは痛みや愛する人の死を経験します。けれども、神様はその場所を泉の湧く所とされます。恵みの雨がその痛みと苦しみを覆って癒します。

だから、

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(7)

イザヤはこう書きました。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)

だから、詩人は神様に叫びます。

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。セラ

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。(8-9)

この箇所では、詩人は王のために祈りました。その王はイスラエルの盾でした。

しかし、私たちクリスチャンにとって、その王はイエス様です。この世で、イエス様は私たちの盾です。

最後に、詩人は礼拝者の祝福と喜びについて歌います。

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。(10-12)

私たちはただ旅人です。この世の物は将来の栄光の影だけです。

だから、一時的なものに照準を合わせずに、神様に照準を合わせましょう。

あなたはどこに照準を合わせていますか。