これは、私が最も愛する聖句の一つです。おそらく高校生の頃に暗記したのでしょう。
旧約聖書の時代、贖罪の日になると、イスラエルの民は幕屋の外に立ち、大祭司は聖所を通って、至聖所へと進みました。そこで彼は、いけにえの血を契約の箱の蓋に振りまきました。
この儀式によって、大祭司はイスラエルの罪のために宥めを行い、神様の怒りはなだめられました(レビ記16:15-17)。
しかし、天にある真の聖所において、イエス様は他の大祭司にはできないことを成し遂げられました。イエス様は、神様と私たちの間にあった垂れ幕を取り除かれたのです。
十字架で死なれたとき、聖所と至聖所の間にあった垂れ幕は、上から下まで真っ二つに裂かれました(マタイ27:51-52)。
この出来事によって、神様はすべての人に向かってこう告げられたのです。「わたしのもとへ来る道は、開かれた。」
だから、この手紙の著者は、こう語っています。
こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル人への手紙10:19-22)
イエス様は至聖所に入り、ご自身の血を捧げられた後、垂れ幕を取り除き、こう語られました――「わたしの父のもとへの道は開かれた。さあ、わたしと共に入ってきなさい。」
だから、この手紙の著者は私たちに語ります。「幕屋の外に立ち、神様から離れたままでいてはなりません。むしろ、神様に近づきなさい。十字架の御業によって、イエス様はその道を開いてくださったのです。
イスラエルの罪を清めるために契約の箱の蓋が血で覆われたように、私たちの心もイエス様の血によって振りかけられ、清められました。
だから、私たちは恐れることなく、神様の御前に立つことができるのです。イエス様の御業によって、私たちは聖なる者とされたからです。」
この手紙の著者はさらに語ります。
約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(23)
試練に直面する時、キリストから離れ、信仰を捨てることは、ある意味で簡単に見えるかもしれません。それは、神様の愛や真実さ、約束を疑い始めてしまうからです。
しかし、十字架において、イエス様は私たちに対する愛と忠実さを確かに示してくださいました。だから、苦しい時にはイエス様にしがみつき、イエス様の誠実さを心に刻み続けてください。
そして、他のクリスチャンの信仰が揺らぐ時には、この手紙の著者の言葉を思い起こしてください。
また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。
その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(24-25)
時に、クリスチャンはこう言います。「どうして教会に行かなければならないのだろうか。一人で信仰生活を送ってもいいのではないか。」
しかし、それは自己中心的な考え方です。あなた自身が他のクリスチャンを必要としないとしても、彼らはあなたを必要としています。彼らはあなたの励ましを必要としており、あなたもまた彼らの励ましを必要としているのです。
私たちは自己満足に陥ることなく、愛と善行を行うために、互いに励まし合うべきです。
だから、兄弟姉妹たちがイエス様の愛をもってこの世に触れていくことができるよう、どのように励ますことができるかを考えましょう。
イエス様が再び来られる日が近づいているのですから、なおさらそうすべきです。
神様への道はすでに開かれました。私たちはその道を活かして、神様に近づいているでしょうか。周りの人々が神様に近づくよう促しているでしょうか。
天の父はあなたのために待っておられます。あなたはどう応えるでしょうか。