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使徒の働きのデボーション

神様に出会える場所となる

すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒の働き3:6)

日曜日に、私の牧師は、エデンの園が天と地の交わる最初の場所について話していました。そこでは、アダムとエバが神様と直接出会うことができました。

その後、幕屋と神殿が、神様と出会える場所として設けられました。

そして、イエス様がこの世に来られ、人々はイエス様に出会うことで、初めて神様の御顔を見ることができました。

しかし今、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、私たち自身が天と地の交わる場所となっています。人々は私たちを通して神様に出会うことができるのです。

足の不自由な人にとって、ペテロとヨハネは天と地の交わる場所となりました。彼らを通して、彼だけでなく、何千人もの人々が神様に出会いました。

私も、周囲の人々にとって天と地の交わる場所となりたいです。ペテロとヨハネのように、神様が私に導かれる人々に気づき、神様の愛で触れたいです。

彼らの癒しのために祈り、励ましの言葉をかけ、イエス様の福音を伝えたいのです。

それが私の祈りです。

天のお父様、私が天と地の交わる場所となりますように。 私を通して、人々があなたに出会うことができますように。

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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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出エジプト記のデボーション

私たちの宥めな蓋

今日の箇所では、幕屋に関して、とても具体的な指示がたくさんありますね。

どうして、幕屋のことはそんなに大切なのでしょうか。私たちには、関係あるでしょうか。

ヘブル書の著者は説明します。

この祭司たちは、天にあるものの写しと影に仕えています。

それは、モーセが幕屋を設営しようとしたときに、御告げを受けたとおりのものです。

神は、「よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのものを作らなければならない」と言われました。(へブル書8:5)

「天にあるものの写しと影」とは、どういう意味でしょうか。

出エジプト記25章には、いくつかの例がありますが、私の心を打ったのは、22節です。

わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その「宥めの蓋」の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。(出エジプト記25:22)

そのあかしの箱の中には、十戒が書かれた板が入っていました。(16)

十戒は神の民に神様の聖なるさを思い出させました。また、十戒は、彼らが神様のように聖なる者とならなければならない、ということを思い出させました。

でも、十戒は彼らの罪をも思い出させました。

私たちは自分の聖さによって、神様に近づくことができません。

むしろ、神様は宥めの蓋から私たちに語られます。その場所で、私たちは神様に近づきます。

旧約聖書の時代、一年に一回、宥めの供え物からの血は宥めの蓋の上にかけられました。その血によって、イスラエル人たちは赦されました。(レビ記16章)

でも、今、パウロはこう言います。

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(ローマ3:25)

別訳では、

神は(イエス)を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。

イエス様こそが私たちの宥めの蓋です。

イエス様の血によって、私たちは赦されました。

また、その血によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、今日の箇所を読むとき、パウロの言葉を覚えていて、喜びましょう。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めの蓋として公に示されました。(ローマ3:23ー25)

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ヘブル人への手紙

開かれた

これは、私が最も愛する聖句の一つです。おそらく高校生の頃に暗記したのでしょう。

旧約聖書の時代、贖罪の日になると、イスラエルの民は幕屋の外に立ち、大祭司は聖所を通って、至聖所へと進みました。そこで彼は、いけにえの血を契約の箱の蓋に振りまきました。

この儀式によって、大祭司はイスラエルの罪のために宥めを行い、神様の怒りはなだめられました(レビ記16:15-17)。

しかし、天にある真の聖所において、イエス様は他の大祭司にはできないことを成し遂げられました。イエス様は、神様と私たちの間にあった垂れ幕を取り除かれたのです。

十字架で死なれたとき、聖所と至聖所の間にあった垂れ幕は、上から下まで真っ二つに裂かれました(マタイ27:51-52)。

この出来事によって、神様はすべての人に向かってこう告げられたのです。「わたしのもとへ来る道は、開かれた。」

だから、この手紙の著者は、こう語っています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル人への手紙10:19-22)

イエス様は至聖所に入り、ご自身の血を捧げられた後、垂れ幕を取り除き、こう語られました――「わたしの父のもとへの道は開かれた。さあ、わたしと共に入ってきなさい。」

だから、この手紙の著者は私たちに語ります。「幕屋の外に立ち、神様から離れたままでいてはなりません。むしろ、神様に近づきなさい。十字架の御業によって、イエス様はその道を開いてくださったのです。

イスラエルの罪を清めるために契約の箱の蓋が血で覆われたように、私たちの心もイエス様の血によって振りかけられ、清められました。

だから、私たちは恐れることなく、神様の御前に立つことができるのです。イエス様の御業によって、私たちは聖なる者とされたからです。」

この手紙の著者はさらに語ります。

約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(23)

試練に直面する時、キリストから離れ、信仰を捨てることは、ある意味で簡単に見えるかもしれません。それは、神様の愛や真実さ、約束を疑い始めてしまうからです。

しかし、十字架において、イエス様は私たちに対する愛と忠実さを確かに示してくださいました。だから、苦しい時にはイエス様にしがみつき、イエス様の誠実さを心に刻み続けてください。

そして、他のクリスチャンの信仰が揺らぐ時には、この手紙の著者の言葉を思い起こしてください。

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。

その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(24-25)

時に、クリスチャンはこう言います。「どうして教会に行かなければならないのだろうか。一人で信仰生活を送ってもいいのではないか。」

しかし、それは自己中心的な考え方です。あなた自身が他のクリスチャンを必要としないとしても、彼らはあなたを必要としています。彼らはあなたの励ましを必要としており、あなたもまた彼らの励ましを必要としているのです。

私たちは自己満足に陥ることなく、愛と善行を行うために、互いに励まし合うべきです。

だから、兄弟姉妹たちがイエス様の愛をもってこの世に触れていくことができるよう、どのように励ますことができるかを考えましょう。

イエス様が再び来られる日が近づいているのですから、なおさらそうすべきです。

神様への道はすでに開かれました。私たちはその道を活かして、神様に近づいているでしょうか。周りの人々が神様に近づくよう促しているでしょうか。

天の父はあなたのために待っておられます。あなたはどう応えるでしょうか。