2章で、パウロは「成熟したクリスチャン」や「御霊を受けている人」について語っています。
この場合、「御霊を受けている人」には「霊的な人」というニュアンスがあります。つまり、聖霊様を受けているだけでなく、その人は聖霊様の導きに従っているのです。
しかし、パウロはコリントの人々を「成熟したクリスチャン」や「聖霊様の導きに従っているクリスチャン」とは呼ぶことができませんでした。むしろ、パウロは次のように語りました。
兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
私は、あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(コリント人への手紙第一3:1-4)
それは非常に厳しい言葉かもしれません。しかし、もしパウロがあなたを見たなら、何と言うでしょうか。もしイエス様があなたを見たなら、どのように語られるでしょうか。
私の言葉を誤解しないでください。もしあなたが最近クリスチャンになったばかりなら、私はあなたのことを言っているのではありません。
もちろん、あなたは霊的に幼い段階にあるため、成長すべきことが多くあるでしょう。しかし、もし赤ちゃんが決して成長しないなら、それは深刻な問題です。
例えば、もし私の10歳の娘がまだ哺乳瓶でミルクを飲んでいたら、それはおかしいでしょう。赤ちゃんの頃なら微笑ましい光景ですが、10歳の子どもにはふさわしくありません。
もし彼女が歩かずに、まだはいはいしていたら、それはおかしいでしょう。
また、もし彼女が赤ちゃん言葉しか話せないなら、それもおかしいでしょう。
しかし、多くのクリスチャンは、今もなお霊的に幼い状態にあります。彼らは、ほとんど成長することなく歩み続けているのです。
つまり、彼らはまだ「肉に属する人」と言えるでしょう。そのような人は、ノンクリスチャンのように生き続けます。
コリントの人々の場合、彼らの心はねたみに満ち、絶えず争っていました。彼らはプライドを持ち、リーダーたちを比較し、他のクリスチャンを見下していました。その結果、彼らの教会は分裂してしまったのです。
現代においても、どれほど多くの教会が同じ理由で引き裂かれているでしょうか。また、その問題によって、どれほど多くの人々が教会を離れているでしょうか。それは霊的未成熟の兆候です。
もしあなたの心がそのようなものに満ちているなら、どのように霊的に成長できるでしょうか。あなたは根本的なことに立ち戻らなくてはなりません。つまり、あなたは福音のミルクをもう一度飲む必要があります。
そのミルクとは何でしょうか。そのミルクにはどのような真理が含まれているでしょうか。
それは、神様があなたを愛しているということです。あなたの身分によってではなく、あなたの行いによってでもなく、神様ご自身の性質によって、神様はあなたを愛しておられます。
そして、あなたの罪のためにイエス様をこの世に送り、十字架で死なせるほどに、神様はあなたを愛してくださいました。
では、なぜ私たちはプライドを持つのでしょうか。なぜ自分自身を他の人と比べるのでしょうか。なぜ私たちは相手をねたみ、争うのでしょうか。それは、神様があなたを愛しているという真理を、まだ心から実感していないからです。
もし私たちが神様の愛を本当に知っているなら、他の人の評価を気にすることはありません。
私たちは相手をねたむこともなく、自分自身を他の人と比べることもありません。なぜなら、神様が私たちをありのままで受け入れてくださるからです。
さらに、私たちはプライドを捨てます。なぜなら、私たちには誇るべきものが何もないと悟るからです。私たちが持っているものすべては神様から与えられたものです。
もし私たちがその祝福を得るために何かをしたのではなく、ただ恵みによって受け取ったのなら、自慢する余地はないのです。
あなたはどうでしょうか。その真理が心に深く刻まれていますか。
私たちがこの世の考え方に流されないように。私たちが霊的に幼いままで留まらないように。
むしろ、その真理をしっかりと受け入れましょう。そうすれば、私たちは成長し、神様が望まれる姿へと変えられていきます。