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列王記第一のデボーション

私たちを強くし、堅く立たせる方

この柱を本殿の玄関広間の前に立てた。

彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。(列王記第一7:21)

正直に言うと、私にとって、7章はかなり退屈に感じられました。

でも、この箇所を読んだとき、神様は「ヤキン」と「ボアズ」についての脚注に私の注意を向けられました。

「ヤキン」とは、「彼は設立する」または「彼は堅く立たせる」を意味します。

「ボアズ」とは、「力をもって」、または「彼にあって力がある」を意味します。

もしかしたら、ソロモンは第二サムエル記7:7ー16にある、ダビデへの神のことばを思い出したかもしれません。

ダビデはいろいろな試練に直面していましたが、神様はダビデを強くしてくださり、ダビデの子孫の王座を堅く立たせると約束されました。

最終的に、そのことばは、ダビデの子孫であるイエス様において成就します。

とにかく、神様は私に思い出させてくださいました。「私はあなたをも堅く立たせます。私はあなたをも強くします。だから、私と共に歩みなさい。」

それが神殿の意味です。神様が私たちと共におられるということです。

だからこそ、神様と歩調を合わせましょう。

そうすれば、私たちがどんな試練に直面しても、神様は私たちを堅く立たせ、毎日強くしてくださいます。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:10)

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コリント人への手紙第一

教会に持ち寄る、与える心

教会を離れるとき、多くの人々はこう言います。「私はその教会から何の益も得られませんでした。」

つまり、彼らはエンターテインメントを期待し、教会のメンバーが常に世話をしてくれることを望んでいました。けれども、その期待が満たされなかったため、教会へ行くことに興味を失ってしまったのです。

それは自己中心的な考え方です。クリスチャンとして、そのように考えてはいけません。

パウロはこう語りました。

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。

そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。(コリント人への手紙第一14:26)

パウロによれば、教会に来るとき、私たちはいつも「頂戴、頂戴、頂戴」という態度を持っていてはいけません。

むしろ、「私は何を人々に与えることができるだろうか。どのようにして人々を励まし、強めることができるだろうか」と考えるべきです。

パウロは、牧師たちだけがそのように考えるべきだとは言いません。むしろ、すべての人が何かを教会に持ち寄り、周りの兄弟姉妹に与えるべきだと言いました。

最も成熟したクリスチャンでも、洗礼を受けたばかりのクリスチャンでも、「私はどのように人々を祝福することができるだろうか」と考えるべきです。

若いクリスチャンでも、自分の心に響いた聖書の箇所を分かち合うことができます。子供でも、イエス様についての歌を歌うことができます。

ある日曜日、教会から帰る途中、私の娘は日曜学校で学んだ歌を歌いました。 「神様はどこですか。神様はここにおられます。あなたがどこへ行っても、神様はあなたと共におられます。」

だから、「今日、教会で何の益を得るのだろうか」と考え、自己中心的な態度で教会に行くのはやめましょう。

むしろ、どのように人を励まし、強めることができるかを考えましょう。

また、愛と善行を促すために互いに注意を払おうではありませんか。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ、励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(へブル10:24-25)