カテゴリー
列王記第一のデボーション

主が名を置かれる宮

ユダではソロモンの子レハブアムが王になっていた。

レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。

彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。列王記第一14:21)

ソロモンが神の神殿を建てたとき、神様はご自分の名をその神殿にとこしえまでも置くと約束されました。(列王記第一9:3)

でも、そのあと、ソロモンは神様がご自分の名を置いた都市にもう一つの名前、つまり、もう一人の人を連れてきました。その人はソロモンの妻であるナアマでした。

彼女とソロモンの他の妻たちの影響によって、ソロモンの心はほかの神々に向かってしまいました。(列王記第一11:1ー4)

どうやら、ナアマはレハブアムを同じ道に導いたようです。列王記の著者はわざわざレハブアムの母の名前とその素性を二度記録しています。

神様は私たちにご自分の名を置かれました。私たちは今、神の宮です。でも、私たちはほかのどのような名、つまり、どのような影響をその宮に持ち込んでいるでしょうか。

どんな本を読んでいますか。

インターネットやテレビで何を見ていますか。

どんなポッドキャストや歌を聴いていますか。

ある種のものは明らかに悪いものです。もちろん、そのようなものは避けるべきです。

あるものは別に悪いものではありませんが、クリスチャンの成長のために特に役に立たないものです。そのようなものは、適度であればまったく問題ありません。

でも、あるものの影響によって、私たちは神様に近づき、信仰が強められます。

あなたはそのようなものを神の宮に持ち込んでいるでしょうか。

神の宮に持ち込むものは、あなたの態度や世界観、そして信仰にどのような影響を与えているでしょうか。

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)

カテゴリー
コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(2)

前回の記事では、不信者とつり合

わないくびきをともにしないことの重要性について考えました。つまり、ノン・クリスチャンの影響によって清い人生を送ることができず、神様に忠実に仕えることが難しくなるなら、その人との関係において少し距離を取ることが必要かもしれません。

では、なぜそれが重要なのでしょうか。パウロはこう述べています。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。

正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。

信者と不信者が何を共有しているでしょう。

神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(コリント人への手紙第二6:14-16a)

簡単に言えば、不信者と私たちの考え方や価値観には大きな隔たりがあり、その溝を橋で埋めることはできません。その理由は、私たちが異なる存在として属しているからです。

要するに、私たちは生ける神の宮であり、神様が私たちのうちに住んでおられます。

一方で、彼らは偶像の宮です。彼らは仏壇で拝まないかもしれません。それでも、心の王座から神様を追い出し、代わりに別のものをその王座に据えています。例えば、個人の幸せ、お金、持ち物などです。

そして、神様の考え方がその偶像の邪魔になると、彼らは神様を拒み、自分勝手に生きていきます。

もし彼らがそのように生きているのなら、どうして私たちが彼らの影響を受けるべきでしょうか。彼らはサタンの偽りを受け入れました。 「あなたがたが神のようになります。」(創世記3:5)

エバに言ったように、サタンは彼らにもこう語りかけます。

「あなたには神様の勧告など必要ありません。あなたは十分に賢いのです。幸せを得るために、神様のもとへ行く必要はありません。ほかのものによって、あなたは幸せになれるでしょう。神様のためではなく、自分のために生きたほうがよいのです。」

そして、サタンの偽りを信じると、彼らは実際にはサタンのために生きることになり、周囲の人々にもサタンに従うよう促してしまいます。

しかし、神様は私たちを自分の子供となるように呼ばれました。神様は、私たちがこの世の人々とは異なる存在となるように招いておられます。神様は、私たちが聖なる者となるように導いておられます。

だからこそ、パウロはこう語ります。

神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」(6:16b-18)

そして、パウロはその話を次のようにまとめています。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

私たちは神様との素晴らしい関係を持つように招かれています。しかし、その関係を望むなら、私たちは罪から自分自身を清めるべきです。そのために、時には、私たちに悪い影響を与える人々から距離を保つ必要があるかもしれません。

あなたはどうでしょうか。神様への愛と敬意をもって、清い人生を歩んでいるでしょうか。あなたの人生は神様に仕えるものとなっているでしょうか。

もしかすると、この世に溶け込むあまり、知らず知らずのうちに周囲の人々の影響を受けてしまっているかもしれません。

カテゴリー
コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(1)

聖さ。

多くの人々は、「聖い人」と聞くと、神様の栄光に輝いている人物を思い描きます。

しかし、「聖さ」には二つの側面があります。それは、清い人生を送ることと、神様の奉仕のためにこの世の人々から分けられることです。

クリスチャンとして、私たちはそのような生き方をするべきです。私たちは、周囲の人々にとって、私たちがクリスチャンであることが分からないほどに、この世に溶け込んではなりません。

彼らが私たちを見るとき、私たちの態度や行動が彼らと異なっていることが分かるはずなのです。

ところが、多くのクリスチャンがこの世に溶け込んでしまうのです。

その理由の一つは、「神様のためにほかの人々から分けられた者である」というマインドセットを持っていないからです。むしろ、彼らはこの世の人々から影響を受けてしまっています。

だからこそ、パウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。(コリント人への手紙第二6:14)

それはどういう意味でしょうか。その描写は申命記から来ています。神様はこう言われました。

牛とろばとを組にして耕してはならない。(申命記22:10)

その律法の前後では、神様は2種類のものを混ぜることを禁じておられます。だから、2種類の種を同じぶどう畑に蒔いてはいけませんでしたし、衣服を作るときも、羊毛と亜麻糸を混ぜてはいけませんでした。

なぜ神様はそのような律法を制定されたのでしょうか。それは、イスラエル人に清さについて教えようとされたからです。この律法を通して、ユダヤ人は、自分が清い者として生きるべきことを学びました。

では、なぜパウロは服や種の描写を用いなかったのでしょうか。おそらく、パウロは清さ以上の応用を見出したのでしょう。

牛とろばが組にされたとき、ろばは牛に大きな影響を与えることができました。牛は前に進もうとしていたかもしれません。しかし、もしろばが頑固で進みたくないと思ったとすれば、牛が進むのは非常に困難になってしまいます。

また、ろばが別の方向へ行きたいと思ったとき、牛には選択肢がありました。牛はろばの導きに従うこともできましたし、あるいは、ろばを強制的に正しい方向へ進ませようとすることもできました。

おそらく、パウロのポイントは、クリスチャンではない人に強く影響を受けるほどに、彼らと深く結びついてはいけないということです。

例えば、クリスチャンの起業家が悪徳商法を行う人物と提携すれば、大変な状況に巻き込まれるかもしれません。

また、私たちがアドバイスを求める際、ノン・クリスチャンの友人から影響を受けることもあります。

もちろん、ノン・クリスチャンの助言が有益な場合もあります。けれども、時にはそのアドバイスが一見良いように聞こえても、聖書の教えに反することがあります。

「彼女と一緒に住めばいいじゃない。彼女を愛しているんでしょう?」

「時には、成功するためにルールを曲げなくてはならないこともある。」

彼らはあなたの最善を願っているかもしれません。それでも、彼らが神様のみ言葉を知らないために、結果としてあなたを罪へと導いてしまう可能性があるのです。

それは避けるべきことです。私たちはノン・クリスチャンに影響を与える存在であるべきであり、彼らから影響を受けるべきではありません。

では、その関係を断つべきでしょうか。もちろん、そうではありません。

しかし、自分の人間関係を振り返るとき、私たちは自分自身にこう問いかける必要があります。

「彼らは私に過度な影響を与えていないだろうか。彼らの影響によって、私は自分の純潔を失いつつあるのではないか。神様のために聖別されているはずなのに、彼らの影響によって、そのように生きていないのではないか。」

もし「はい」と答えるなら、その人との関係において、少し距離を取ることが必要かもしれません。

次の記事で、この話をさらに掘り下げていきます。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ17章

人々につまずきを与えている?

この箇所では、イエス様はこう言われます。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。

この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカの福音書17:2)

それは非常に厳しい言葉ですが、イエス様は続けてこう語られました。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに語っている。あなたに警告している。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んだとき、私は少し恐れを感じます。私には9歳の娘がいます。彼女はまだ幼い存在です。私はどんな父親なのだろうか。私は懸命に努力していますが、決して完璧な父親ではありません。

彼女は私を見ています。私は彼女にとって良い模範となっているでしょうか。それとも、私の言動によって娘につまずきを与えてしまっているでしょうか。

そのことを思うとき、私はこう祈ります。 「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」

しかし、私はほかの人々にもつまずきを与えているでしょうか。私は、妻や同僚、教会の人々に対して、私の行動や悪い態度を通して、知らず知らずのうちに傷つけているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々にどのような影響を与えているでしょうか。

あなたの生き方を通して、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。それとも、あなたが彼らにつまずきを与えているでしょうか。

カテゴリー
ゼカリヤ書

偽の敬虔

多くの人々は、クリスチャンをその偽善のために批判します。確かに、クリスチャンがその批判に値する時もありますが、そうではない時もあります。しかし、神様は偽善を非常に深刻に考えられるお方です。

この箇所では、バビロンから追放され、イスラエルに戻ってきたユダヤ人たちが、ゼカリヤに質問をしました。

私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。(ゼカリヤ書7:3)

でも、神様はゼカリヤにこう答えられました。

この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。(5-6)

つまり、「あなたたちはその宗教的な儀式を行いましたが、心からではありませんでした。そのため、それは全く意味のないものとなり、ただのショーに過ぎませんでした。」

英語の「hypocrite」、つまり「偽善者」という言葉はギリシャ語に由来します。ギリシャ語では、「偽善者」という言葉は「舞台俳優」を意味します。

そのユダヤ人たちは俳優のような存在でした。彼らは敬虔な人々のように振る舞いましたが、実際には心からの敬虔さを持っていませんでした。

その結果、神様は彼らに対し、追放前に彼らの先祖に与えられた命令を思い起こさせました。

万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。(9-11)

神様はそのユダヤ人たちに警告されました。「あなたたちの先祖は自分の心を堅くし、その結果として追放されました。」

「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。(13)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様は私たちの敬虔な儀式に感動されるわけではありません。神様にとって重要なのは、私たちが日々どのように生きるかということです。

私たちはどのように周りの人々を扱うでしょうか。彼らに憐れみを与えているでしょうか。正義を求めているでしょうか。

3年ほど前、私は「アメイジング・グレイス」という映画を観ました。この映画は、ウィリアム・ウィルバーフォースについての物語です。彼はイギリスで奴隷貿易を廃止するために戦いました。

ウィルバーフォースが奴隷に情けを示したように、私たちも周りの人々に憐れみを示すべきです。それが神様の望みです。

私たちはウィルバーフォースのように全国的な影響を与えることはできないかもしれません。しかし、私たちは周りの人々に影響を与えることができます。家庭でも、職場でも、近所でも、私たちは人々に影響を与えられます。

周りの人々は私たちの中にキリストの憐れみを見ているでしょうか。それが神様の望みです。もしキリストの体である私たちが、周りの人々に愛と憐れみを示すなら、この世界全体が変わるでしょう。

だから、偽善者にならないようにしましょう。ただ教会に行き、聖書を読み、祈るだけではなく、神様の愛と憐れみで私たちの心を満たしましょう。そして、私たちはキリストのために、この世の人々に触れましょう。

カテゴリー
ヨナ書

私たちの選択

前回の箇所(列王記第二14:25)にヨナの名前が登場したことを受けて、今日はヨナの話について見ていきましょう。

これは非常に有名な聖書の話です。特に興味深いのは、この物語が起こった時期です。この出来事はヤロブアムがイスラエルの王だった頃で、イスラエルの民はほとんど神様を求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はヨナをイスラエルの民のために送りませんでした。むしろ、神様はイスラエルの敵であるニネベに悔い改めのメッセージを伝えるためにヨナを送りました。

おそらくヨナは、イスラエルの民に「神様はあなた方を敵の手から救い出す」と伝えることに喜びを感じていたことでしょう。

たとえ神様がヤロブアムを用いて働かれる理由が彼に理解できなかったとしても、それが良い知らせである以上、ヨナは困ることはありませんでした。

しかし、神様がイスラエルの敵を愛し、彼らに悔い改めの機会を与えようとされたため、ヨナは大いに困惑しました。彼はこう考えたかもしれません。

「なぜ神様はイスラエルの敵に悔い改めのメッセージを伝えたいのだろうか?彼らを滅ぼしたほうが良いのではないか?」

その結果、ヨナはニネベに行くことを拒み、反対の方向へ逃げる道を選びました。

皮肉なことに、神様はヨナが人々に影響を与えることを望まれました。ヨナは確かに影響を与えましたが、それは悪い方法での影響でした。

神様はヨナの注意を引くために嵐を送られました。けれども、その船にはヨナだけでなく、他の乗客も乗っており、皆が困難に直面しました。

ここでお伝えしたいのは、私たちの選択が他の人々に影響を与えるということです。それは良い影響かもしれませんし、悪い影響かもしれません。

神様に従うなら、私たちはこの世のために多くの良いことをすることができます。

しかし、神様に背くなら、否定的な影響を周りの人々に与えてしまうでしょう。私たちの家族や友人、愛する人々に悪い影響を与える可能性があります。

そして、私たちの悪い行動によって、彼らは神様に近づくどころか、神様に背を向けてしまうかもしれません。

幸いなことに、ヨナの罪にもかかわらず、神様はご自身の栄光のためにヨナの行動を用いられました。船乗りたちがヨナを抱え、海に投げ込むと、海はその激しい怒りを静めました。それを見た船乗りたちは神様を恐れ、神様を求め始めたのです。

では、あなたはどうでしょうか。周りの人々にどのような影響を与えていますか。悪い影響でしょうか、それとも良い影響を与えていますか。

毎日、神様に従うことを選びましょう。そうすれば、神様は私たちを通してこの世を変えてくださいます。