この箇所では、ユダの王ヨタムについての短い記録を読みます。彼はほぼ正しい王でした。
歴代誌第二によると、
彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。(歴代誌第二27:2)
ウジヤ王の話を覚えていますか。彼は香を焚くために主の神殿に入ってしまいました。そのため、神様は彼を裁かれました。
(祭司たちだけがその仕事をするべきとされていました。)(歴代誌第二26:18-19)
ウジヤの治世は悪い形で終わりましたが、その息子であるヨタムの治世は非常に成功しました。
例えば、ヨタムはアモン人と戦って打ち勝ったのです。では、どうして彼が成功を収めたのでしょうか。
彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである。(歴代誌第二27:6)
それでも、ヨタムは完璧な王ではありませんでした。どうしてでしょうか。
それは2節にこう記されています。
民はなお滅びに向かっていた。(歴代誌第二27:2)
「滅びに向かっていた」とは、どのような意味なのでしょうか。
列王記第二によると、
ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。(列王記第二15:35)
ヨタムは主の前で自分の道を確かなものとしましたが、その民はそうしませんでした。このような行動のために、ホセアやイザヤはユダの民を責めました。
さらに悪かったのは、ヨタムが息子アハズに主の礼拝を教えなかったように見えることです。
そのため、アハズが王になると、彼はユダの民をますます偶像礼拝へと導きました。
私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。
私たちが神様とともに歩み、神様の心に従っているとしても、私たちには自分が影響を及ぼす範囲があるのです。それは私たちの伴侶、子供、隣人、そして同僚です。
私たち自身が神様を仕えることだけでは十分ではありません。神様が私たちに与えてくださった人々に良い影響を与えるべきなのです。
そうしないと、神様は私たちをそのために裁かれるのです。
もちろん、私たちは他の人々に良い決断を強制することはできません。また、他の人々が主に仕えることを強制することもできません。
しかし、私たちに権威が与えられている場合、特に子供に対しては、できる限り神様について教え、彼らが神様に従うように導くべきです。
あなたの影響の範囲はどこでしょうか。神様は誰をあなたに託されたのでしょうか。
あなた自身が主に仕えるだけで満足しているでしょうか。
それとも、他の人々を主の道に導いているでしょうか。
