多分、イエス様がパリサイ人たちや律法学者と安息日について言い争いを始められた後で、イエス様はこの言葉を言われたのだと思われます。イエス様は、すでに何度も安息日に人々を癒しておられたことでしょう。
それでも、イエス様は、はっきりと言われました。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(5:17)
どのように、イエス様は律法や預言を成就されたのでしょうか。それは、大体三つの方法で成就されました。
一つ目は、イエス様がメシアの預言を成就されたことです。
二つ目は、イエス様が他の人にはできないことをされたことです。つまり、イエス様は律法を完全に守られました。そのため、イエス様は私たちの罪のために死ぬことがおできになりました。
パウロはこう書いています。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ書8:3-4)
三つ目は、イエス様の死によって、イエス様は神様が要求されたすべてのいけにえを成就されたことです。
ヘブル人への手紙の著者によれば、神様はそのいけにえを要求されましたが、そのいけにえは私たちの罪を本当に清めることができませんでした。そのいけにえは、ただイエス様の十字架の働きの一つの「画」となるものでした。
しかし、今やイエス様にあって私たちの罪は清められ、赦されたので、そのいけにえはもう必要ありません。イエス様にあって、そのいけにえは成就されました。(ヘブル10:1-18)
律法はイエス様にあって成就され、私たちは神様の目には清い者となりました。それでも、律法は神様の聖さについて教え、私たちがどんな人になるべきかを示します。
そして、神様が聖なる方であるため、私たちも聖い人生を生きるべきです。
もちろん、私たちは自分の救いを買おうとは思いません。
けれども、聖霊様は私たちの心に住まわれ、私たちが清い人生を歩むよう助けてくださいます。
以前、私たちには清い人生を送る力がありませんでした。しかし、今神様は私たちと共におられ、神様がそもそも私たちをデザインされたように生きる力を与えてくださいます。
そして、イエス様は、私たちに警告を与えられます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(20)
たぶん、ユダヤ人たちはそれを聞くと、面食らったことでしょう。なぜなら、パリサイ人たちと律法学者は、一番律法を守る人とみなされていたからです。彼らはその律法を守るために、たくさんの余計なルールを立てました。
しかし、本当の義は、律法の文字通りに守ることだけではありません。本当の義は心から来ます。もしあなたの心が神様の目に悪ければ、どんな良いことをしても神様にその行動を認めてくださいません。
だから、イエス様はパリサイ人たちと律法学者を本当に責められました。彼らが正義とあわれみと誠実を全く知らなかったからです。(マタイ23:23)
あなたの心はどうでしょうか。あなたは正しいことをしているかもしれませんが、あなたの心は神様の目に正しいでしょうか。神様は、あなたの心について何と言われますか。
