今日の箇所で、パウロは家族関係についての教えを締めくくり、 私たちとキリストとの関係を描写する、もう一つのたとえを与えています。
これまで学んできたのは、親子関係が私たちと天の父との関係を描写し、 また、夫婦関係が私たちとイエス様との関係を映し出しているということでした。
けれども、パウロによれば、主人と奴隷の関係もまた、 私たちとイエス様との関係を映すものとして描かれているのです。
現代の私たちの文化では、奴隷制度と家族関係はまったく異なるものですが、 ローマ時代の文化においては、奴隷たちはその家庭の一員と見なされていました。
パウロや他の使徒たちが、なぜ奴隷制度そのものを直接批判しなかったのか―― それは、私たちにとって少し理解しにくいことかもしれません。
しかし、それでも彼らの語った言葉は、 人々が奴隷をどのように見なすかを大きく変えました。
それ以前、人々は奴隷を人間としてではなく、 自分の所有物として扱っていたのです。
それでも、パウロや使徒たちの教えを通して、 人々は奴隷を神のかたちに創られた人格として認め始めました。 そしてその結果、奴隷制度そのものも、やがて終わりへと向かっていったのです。
それでは、ここでパウロの言葉に耳を傾けてみましょう。
奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。
奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。(エペソ人への手紙6:5-8)
先ほども述べたように、パウロは主人と奴隷の関係を、 私たちとイエス様との関係にたとえています。
けれども、夫婦関係や親子関係とは異なり、 主人と奴隷の関係は、神様が定められた秩序ではありません。 それは人間によって作り出された制度でした。
だからこそ、パウロはコリントにいたクリスチャンの奴隷たちに、次のように語りました
もし、自分の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。(第一コリント7:21-23)
それでも、この手紙でもあの手紙でも、パウロは私たちをキリストの奴隷にたとえています。 だから、パウロは奴隷たちにこう言います。
「イエス様に従うように、自分の主人に従いなさい。 それだけでなく、恐れおののいて、真心から彼らに従いなさい。 主人があなたを見ていなくても、心から従いなさい。」
どうして奴隷たちはそうするべきだったのでしょうか。 なぜなら、最終的に私たちはキリストの奴隷であり、 イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。
もちろん、現代では私たちは奴隷として働いているわけではありません。
それでも、多くの人は職場で働いたり、教会でボランティア活動をしたりしています。 そして、私たちは同じ態度を取るべきです。 私たちはキリストに仕えていることを覚え、良い態度を保つべきです。 でも、私たちはそうしているでしょうか。
正直に言うと、私はそうしない時もあります。 そんなとき、私は自分の悪い態度を悔い改める必要があります。
私たちはキリストを敬って従うように、上司たちをも敬って従うべきです。
その反面、パウロは主人たち(または、上司たち)にこう言います。
主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。(エペソ人への手紙6:9)
言い換えれば、あなたは目下の人を公平に扱わなければなりません。 もし彼らが給料やボーナスに値するなら、正当に与えるべきです。 イエス様が忠実な者に報いを与えられるように、 あなたも忠実な従業員に報いを与えなければなりません。
また、彼らを脅かしてはなりません。 なぜなら、あなた自身も天におられる主に仕えているからです。 結局のところ、あなたにも従業員にも、同じ主に対する説明責任があるのです。
イエス様は、あなたに目下の人々を委ねられました。 ですから、彼らを扱うときには、 あなた自身もイエス様に対して忠実であるべきなのです。
あなたはどうでしょうか。
従業員の皆さん――神様が任命された上司に対して、 どのように仕えているでしょうか。
上司の皆さん――従業員を扱うとき、 あなたは忠実にイエス様に仕えているでしょうか。
私たちがどんな状況に置かれていても、 常にイエス様に忠実に仕える者でありますように。
