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詩篇のデボーション

裁きの杯を飲まれた方

まことに神こそさばき主。 ある者を低くし、ある者を高く上げられる。

主の御手には杯があり、混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると、実にすべて地の悪者どもは、それを飲み、かすまで飲み干す。(詩篇75:7ー8)

その言葉を読むと、私は黙示録14章を連想します。その箇所にも、私たちは同じテーマを見ることができます。つまり、神様が国々を裁くこと。

その箇所にも、神様の御怒りに満ちた杯というイメージが描かれています。そして、神様に背く者たちは、その杯から混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まなくてはなりません。(黙示録14:9–11)

その日は必ず来ます。

しかし、他の日にも、神様の御怒りは杯から注がれていました。二千年前、十字架の上で、その御怒りが注がれたのです。

イエス様は、その杯を飲みたくはありませんでしたが、私たちのために飲んでくださいました。十字架の上で、イエス様は混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まれたのです。イエス様のおかげで、私たちはその杯を飲む必要がなくなりました。

だから今、私たちは詩人と一緒に歌うことができます。

私たちはあなたに感謝します。 神よ、私たちは感謝します。 あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが 語り告げられています。(詩篇75:1)

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ヨハネの黙示録

最後の警告

このブログで私は何回も言いましたが、神様は忍耐強い方です。でも、その忍耐は永遠に続くわけではありません。

今日の箇所では、その忍耐が尽きるところです。

6節で、一人の御使いが中天を飛びながら、あらゆる国民、部族、言語、民族に最後の福音の宣言をします。彼は大声でこう言います。

神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。(黙示録14:7)

それが文字通りの御使いかどうかは、ちょっとわかりません。もしかしたら、その御使いは、福音を全世界に宣べ伝えて、すべての民族に証しするクリスチャンたちを象徴しているのかもしれません(マタイ24:14)。

でも、文字通りの御使いから伝えられるにしろ、普通のクリスチャンたちから伝えられるにしろ、とにかく、人々は福音を聞く最後の機会を得ます。

でも、その福音の宣言には、警告が付いています。

「今、悔い改めて、神様に向かわなくてはなりません。神様の忍耐が尽きてしまって、裁きが迫っています。だから今のうちに神様を恐れなさい。神様に栄光を帰せよ。神様を礼拝しなさい。」

その後、さらに二人の御使いたちが、もっと至急な警告を宣言します。

倒れた、倒れた、大バビロンが。御怒りを招く淫行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた都が。(黙示録14:8)

その警告は後の出来事への伏線となります。バビロンはかつて偉大な帝国でした。でも、その帝国はいろいろな偽の神々を礼拝し、真の神に背を向け、この悪の世界と霊的な姦淫を犯しました。

ヨハネは、たしかバビロンをローマの象徴と見なしたと思われます。私たちにとっても、バビロンとローマは神なき社会の象徴です。その社会から反キリストが現れます。

でも、御使いが叫んだのは、バビロンがすぐに倒れるということではなく、むしろ、バビロンがすでに倒れたということです。つまり、バビロンはまだ生きているように見えても、実際にはもう死んでいるのです。そしていずれ、すべての人々がそれを悟るようになります。

そして、第三の御使いが最後の警告を宣言します。

もしだれかが獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けるなら、その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。

彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。(9-11)

言い換えると、あなたは中立的な立場をとることができません。あなたは神様の味方かサタンの味方を選ばなくてはいけません。あなたは神様を礼拝しなくてはならないか、獣を礼拝しなくてはなりません。

でも、もし獣を礼拝すると、神様のすべての怒りがあなたに注がれます。

多くの人々は地獄という概念を嫌います。彼らは、愛の神が人々を永遠の苦しみの場所に送ることを信じられません。でも、その御使いの言葉は、はっきりしています。そういった人々には昼も夜も安らぎがありません。むしろ、彼らは永遠に苦しみます。

なぜ彼らは地獄で苦しまなくてはならないのでしょうか。

第一の理由は、私たちは永遠の存在として造られたということです。疑問は、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに存在するかです。

第二の理由は、人々が神様を自分の王として受け入れない場合、神様から遠く離れなくてはならないということです。なぜなら、彼らは神様の近くにいたくないからです。でも、神様から離れること自体が地獄なのです。

あなたはどう考えるでしょうか。この世の情勢を見てみましょう。私たちは、神様を自分の王として認めない世界に生きようとしてきました。その結果は何でしょうか。殺人、レイプ、テロ、さまざまな悪。

私たちの実験は大失敗です。

さらに、神様が今もここにおられ、人々の人生の中で働いておられるため、この世にはまだ良いものが残っています。愛、親切さ、赦し。

でも、もし神様がまったくここにおられないとしたら、この世界はどれほど恐ろしい場所になるでしょうか。そんな世界こそが地獄です。

でも、私たちは地獄に行く必要はありません。十字架において、イエス様は私たちのために神様の怒りを受けました。イエス様は神の怒りの杯を飲まれたので、私たちはその怒りを受ける必要がありません。

しかし、イエス様を拒絶すれば、あなた自身がその杯から飲まなくてはなりません。

あなたはどうされますか。