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悪に負けない

それでは、今日詩篇119を終えます。

以前私は言いましたが、私たちはこの詩の著者を知りません。しかし、もしダビデがこの詩篇を書いたのだとしたら、驚くには及びません。なぜなら、この詩篇の終わりで、私たちは詩人が経験したことを読むからです。

つまり、彼は敵に追いかけられたり、迫害されたりしましたが、彼は復讐を求めませんでした。むしろ、彼は主に叫びました。

私はあなたを呼びました。私をお救いください。私はあなたのさとしを守ります。

私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。(詩篇119:146-147)

それでも、彼の神様の道を行く決心は決して揺るぎませんでした。

彼は寝る前に、どうやって復讐しようか全然考えませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。(148)

彼の敵が神様の言葉を捨てて、彼を殺そうと思ったのに、彼は神様の言葉を捨てずに、自分の命を神様の手に委ねました。

私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。

私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。(153-154)

また、

ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。主よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。(159)

また、

君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(161)

どうして、彼はそのように生きたのでしょうか。なぜなら、彼は神様の道が最も良いと思ったからです。彼はこう書きました。

あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。(165)

そして、彼はもう一度、へりくだって、神様の導きを頼み、神様の道を行くことを決心し、自分の命を神様の手に委ね、神様からの救いを待ち望みました。

あなたはどうですか。あなたは傷ついたら、どう反応するでしょうか。攻められる時、あなたは怒って、悪をもって悪に報いるでしょうか。

あなたは「それは許せない。神様の道じゃないかもしれないけど、復讐する」と言うでしょうか。

そう思うなら、詩人の態度を覚えておきましょう。また、十字架にかけられたイエス様の態度を覚えておきましょう。

イエス様は復讐を求めませんでした。むしろ、その敵を赦してくださいました。また、イエス様は私たちをも赦してくださいました。

最後に、パウロの言葉も覚えておきましょう。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)

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詩篇

苦々しい心と許し、憐れみと正義

詩篇109篇は「呪いの詩篇」です。

時々、詩篇の中で、ダビデは自分の敵を呪ったり、その敵に対する神様の裁きを求めて祈ります。

多くの人々は(私も)こんな詩篇を読む時、気持ちがよくありません。なぜなら、イエス様は私たちに自分の敵を赦しなさいと命じられたからです。

以前、このブログでこのことについて説明したことがあるけど、繰り返した方が良いと思います。

王として、ダビデは正義の大切さをよく知っていました。彼は悪が続くことを許しませんでした。だから、ダビデはその悪者が自分が蒔いたものを刈り入れるように祈りました。

ダビデは無実なのに敵に責められたので、ダビデは彼らが裁かれるように祈ったのです。

「どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。」という言葉は少し難しいです。

もしかしたら、ダビデは彼らも不公平に責められる経験を知ることを望んだのかもしれません。

そして、ダビデは祈ります。

その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。

彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。(詩篇109:9-10)

それは酷い祈りです。とはいえ、その悪者は他の家族をそのように苦しませたのです。

最近、私はニュースを見て、ある殺人者が刑務所で自殺したことを聞きました。彼は婚約者と娘を残しました。

私たちの罪は自分自身に影響を与えるだけでなく、私たちが愛する者にも影響を与えてしまいます。

そして、私たちが悔い改めないなら、神様の赦しを決して知ることがありません。

けれども、このことを覚えていてください。私たちは正義を望むかもしれないけど、苦々しい心を持ってはいけません。なぜなら、苦々しい心は相手を傷つけるよりも、自分自身を傷つけるからです。

興味深いのは、ペテロがこの詩篇をユダに当てはめたことです。ユダは理由もなくイエス様を裏切り、善にかえて悪を与え、愛にかえて憎しみを返しました。

そして、彼が決して悔い改めなかったため、神様は彼を赦されませんでした。その結果、彼の人生は短く終わり、彼の務めと立場は他の人に引き継がれました。

しかし、イエス様はユダに対して苦々しい心を持っておられませんでした。むしろ、最後の晩餐ではユダの足を洗い、彼にパンを与えられました。

そして、ユダが裏切るためにゲツセマネの園に来た時も、イエス様は苦々しさを示されませんでした。むしろ、イエス様はユダに対して情け深く接しておられました。

イエス様は騙されやすい方ではありませんでした。イエス様はユダの性格と動機をよく知っておられました。

それでも、イエス様はユダに憐れみと愛を示されました。その愛と憐れみによって、イエス様は彼の頭に燃える炭火を積まれたので(箴言25:21-22)、結局ユダは自分の罪悪感を感じて、自殺しました。

けれども、イエス様は苦々しさに汚れませんでした。

ダビデも苦々しさに汚れませんでした。一回だけ、ダビデは苦々しい心を持って、誰かを殺したいと思いました。

けれども、彼は本当の正義を思い出して、その苦々しい心を手放し、その人に憐れみを与えました。そして、彼が神様の正義を見たとき、この詩篇のように、彼は喜びました。

私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。(30-31)

だから、苦々しい心を手放しましょう。むしろ、憐れみ、赦し、そして正義を大事にしましょう。

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詩篇

苦しむ時、神様に叫ぶ

時々、私たちは祈る時、神様の応えが遅いと思うことがあります。もしくは、神様が私たちを無視しておられると感じることもあります。

詩篇28篇で、ダビデはそう感じました。彼は叫びました。

主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(詩篇28:1-2)

私はダビデのトラブルが何だったか知らないけど、どれほど私たちはダビデのように祈るでしょうか。

「神様、私の言うことを聞いておられるでしょうか。どうして、あなたは沈黙しておられるのでしょうか。私の声を聞いてください。私があなたを呼ぶのを見ておられないのでしょうか。」

そして、ダビデは神様の正義が来るように祈ります。

どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。

彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。(3-4)

多くの詩篇で、ダビデは神様が敵を罰するように祈ります。多くの人々はそれを読む時、「でも、私たちは敵を愛するべきではないでしょうか?どうして、ダビデはそのように祈ったのだろう」と思います。

しかし、私たちは二つのことを覚えておかなければなりません。

一つ目は、ダビデはいつも正義を神様の手に委ねたということです。自分の手で復讐しませんでした。むしろ、彼はいつも自分の敵を憐れみました。特に、サウルとアブサロムに対して、ダビデは憐れみの心を持っていました。

二つ目は、神様は私たちの敵に対する怒りの叫びを理解してくださいますが、私たちがその敵のために祈る時、神様の心に触れるということです。

ダビデが祈った後、再び喜びがダビデの心に注がれました。どうしてでしょうか。なぜなら、ダビデは神様がその祈りを聞いて、応えてくださる確信があったからです。

ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。(6-8)

そして、ダビデは自分自身のために祈るだけではなく、彼が愛する人々のためにも祈りました。つまり、自分の民のために祈りました。

どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。(9)

私たちは苦しんでいるかもしれませんが、私たちの周りの多くの人々も苦しんでいることを思い出すべきです。だから、自分自身のために祈るだけではなく、周りの人々のために祈りましょう。

そして、神様があわれみの手で私たちに触れてくださったように、私たちも周りの人々に、あわれみの手で触れましょう。

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詩篇

裁判官の役割を神様に委ねる

ダビデの人生を見ると、彼が神様に裁判官の役割を委ねたことが分かります。彼はめったに復讐しようとはしませんでした。

(唯一の例外はナバルの話です。その時、ナバルの妻アビガイルがダビデにナバルを殺さないように願わなければなりませんでした。ダビデはその願いを聞いて、復讐しないことに決めました。)

詩篇7篇では、彼のそのような態度を見ることができます。ある人々がダビデを殺そうと思いましたが、ダビデは自分自身とその敵を神様の手に委ねました。また、裁く役割を神様の手に委ねました。ダビデはこう書きました。

主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。

国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。主は諸国の民をさばかれる。

主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。(詩篇7:6-8)

どうしてダビデはその裁きを神様の手に委ねることができたのでしょうか。なぜなら、彼は心と思いを調べられる神様が正しく裁いて、悪者を罰されると確信していたからです。(9)

そして、ダビデは賛美でこの詩篇を終えました。

その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。(17)

ダビデのように、私たちは心と思いを調べられる神様に信頼し、その神様に裁きを委ねましょう。

復讐の思いは私たちを食い尽くし、私たちの喜びを奪います。しかし、正しく裁かれる神に裁きを委ねると、苦しみの中でも、私たちは喜びと平和を見つけることができます。

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平和

この混迷の世にあっては、平和を見つけるのが難しい時もあります。特に、皆があなたに反対している時には、平和を見つけるのは一層難しくなります。

サウルやアブサロムがダビデを攻めた時、ダビデもそのように感じたと思います。

だからこそ、ダビデは神様に向かって叫びました。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。(詩篇4:1-2)

ダビデの苦しみの中で、周りの人々はダビデの信仰をからかっていたかもしれません。「神様はあなたを救えない。神様は本当に存在しているのだろうか。」

現代でも、人々は同じようなことを言います。彼らは偽りの神々を礼拝し、お金の「神」や、セックスの「神」や、力の「神」を追い求めます。

だからこそ、私たちが問題に直面する時、彼らは私たちが神様に従うことをからかいます。

けれども、ダビデはその敵にこう言いました。

知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(3)

つまり、「あなたは私の信仰をからかうかもしれないけど、私は神様のものです。結局、あなたはそのことを知ります。神様は私の祈りに応えてくださるから。」

そして、自分自身に、また苦しんでいる私たちにこう言います。

恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。(4)

私たちが怒ることは悪いことではありません。イエス様も怒ったことがあります。

しかし、怒るときには、罪を犯さないようにする必要があります。

そのため、神様の前に静まり、自分の心を探り、自分の態度を見直すべきです。そして、神様が私たちの心を汚すものを清めてくださるように祈るべきです。

特に、苦々しい思いに気を付けなければなりません。私たちが苦々しい思いを持ち続けると、その苦々しい思いは、がんのように私たちの人生に広がるからです。

だからこそ、神様がその苦々しい思いを取り去ってくださるように祈るべきです。

そしてダビデはこう言いました。

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(5)

イエス様によれば、義のいけにえを捧げたいなら、健康な人間関係を保つべきです。イエス様はこう言われました。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)

時々、人々が私たちを傷つけ、私たちが仲直りしようとしても、彼らが傷つけ続けることがあります。その場合、私たちは神様がふさわしい時にその人を扱ってくださると信頼すべきです。私たちは復讐してはいけません。

それでも、できるだけ、その人から距離を保つ方が良いです。

サウルがダビデを殺そうと思った時、ダビデはサウルから逃げました。けれども、ダビデのように、その人に対して苦々しい思いを持たないようにしましょう。むしろ、神様に信頼し、その状況とその人を神様の手に委ねるべきです。

そして、苦しむ時、神様の愛と慈しみを疑わないでください。むしろ、ダビデのように、こう祈りましょう。

どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(6)

言い換えるなら、「主よ。私に向かってください。あなたが私とともにおられることを現してください。また、私たちに対するあなたの愛を現してください。なぜなら、あなたの光が私を照らす時、私の周りのものは、ただ陰になるから。」

その態度を取れば、神様の喜びはあなたを満たし、あなたはダビデのように言うでしょう。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(8)

あなたはどうですか。神様の平和を知っているでしょうか。