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サムエル記第一のデボーション

むなしい礼拝、真の礼拝

「どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」

サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」(サムエル記第一15:25~26)

「どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」

サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。(サムエル記第一15:30~31)

天のお父さん、サウルはあなたを礼拝しようとする態度を示しましたが、礼拝の本質をまったく理解していませんでした。

真の礼拝とは、あなたが私たちの心を持っておられることです。それは心の一部ではなく、心のすべてをあなたに捧げることです。

ダビデはそのことをよく理解していました。

まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。

神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17)

しかし、サウルは、その真理を決して理解することがありませんでした。

あなたがサウルの心を持っておられなかったため、彼の礼拝はむなしいものでした。

主よ、あなたは私の心を持っておられるでしょうか。

私の心のすべてを支配してください。

私の礼拝が、サウルの礼拝のようにむなしいものにならないように。

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出エジプト記のデボーション

私のすることすべてが。。。

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト記35:21)

モーセはイスラエルの子らに言った。

「見よ。主は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、 彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。(出エジプト記35:30ー31)

天のお父さん、私のすることすべてが心から流れるようにしてください。

義務からではなく、回りの人々の期待からでもなく、あなたの恵みと愛に触れられ、感謝に満ちた心から私が仕えるようにしてください。

私の動機はよく複雑なものです。私が心のすべてをあなたに捧げるように助けてください。

私が弱くても、自分の物足りなさを感じても、あなたは私を名指して召してくださいました。

あなたの御霊で私を満たしてください。あなたの仕事を成し遂げるため、私に知恵と英知と知識を与えてください。

あなたを離れては、私は何もできません。でも、あなたにとどまっているなら、私は多くの実を結ぶことができます。

私はあなたのために多くの実を結びたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

心からの従順

ユダは獅子の子。 わが子よ、おまえは獲物によって成長する。 雄獅子のように、雌獅子のように、 うずくまり、身を伏せる。 だれがこれを起こせるだろうか。

王権はユダを離れず、 王笏はその足の間を離れない。 ついには彼がシロに来て、 諸国の民は彼に従う。(創世記49:9ー10)

この預言では、私たちが初めて知るのは、ユダの血筋から全世界を治める支配者が来ることです。

最終的に、ユダ族から出た獅子であるイエス様がその預言を成就されました。(黙示録5:5)

しかし、私に印象に残ったのは、その最後の言葉です。「諸国の民は彼に従う。」

私たちもイエス様に従わなくてはなりません。なぜなら、イエス様は私たちの正当な王であり主だからです。

けれども、イエス様は、私たちがただルールに従うことを求めておられるのではありません。

それよりも、イエス様は私たちの心を求めておられます。つまり、イエス様を信頼し、愛する心を求めておられるのです。

私たちがそのような心を持たなければ、私たちの「従順」でさえ、神様を喜ばせることにはなりません。(へブル11:6)

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様のものでしょうか。

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使徒の働き

私たちの心を知っておられる神

この箇所では、マッティアが使徒として選ばれ、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや他の弟子たちが勝手にマッティアを任命したと考えています。つまり、神様はマッティアではなくパウロを選びたかったのだ、と主張するのです。

その人々によれば、イエス様がパウロに現れて彼を使者として任命したとき、実はパウロがユダの務めを引き継いだのだそうです。

私もかつてはそう考えていましたが、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたからです。

イエス様が復活された後、ユダに現れることはなかったため、この文脈ではパウロがマッティアについて言及していたのでしょう。

それに、パウロが使徒として任命されたにもかかわらず、彼はこう言いました。「私は使徒の中で最も小さい者です。私は使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意すべき点があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返した銀貨を受け取り、畑を購入しました。そしてユダは出て行って首を吊りました。

しかし、使徒の働きによれば、ユダ自身が地所を購入し、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けたと記されています。どうやって、その2つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。

それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったからです。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いのは、使徒たちがユダに彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと共に二度の宣教旅行に行き、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。(ルカ9-10章)

とはいえ、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがさまざまな素晴らしい働きをしても、彼の心は真にイエス様のものではありませんでした。そのため、彼は最終的に暴露され、追い出されました。

その後、神様に属する心を持つ者がユダの務めを受け継ぎました。

私は何を言いたいのでしょうか。

私たちがミニストリーに携わっているなら、毎日自分の心を探らなければなりません。私たちの動機を吟味しなければなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか、試さなければなりません。

私たちはイエス様の御名によってさまざまな良いことを行うことができます。私たちのミニストリーを通して人々が救われるかもしれません。

しかし、神様は私たちの心を見抜かれます。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去り、別の人に与えます。

そして、もっと恐ろしい可能性もあります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言うことになるかもしれません。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

ところが、イエス様は私たちにこのように答えられます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様に捧げたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているかもしれません。もしそうなら、結局あなたの務めは取り去られ、ほかの人に与えられるでしょう。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

急な裁き、確実な裁き

パリサイ人たちに神の国について語られた後、イエス様は弟子たちに警告されました。それは、非常に困難な時が訪れるということです。

その時、彼らはイエス様の再臨を切に願い、イエス様が帰られたという噂を聞けば、それを信じてしまうかもしれません。けれども、イエス様はご自身の再臨について、いくつかの重要なことをはっきりと教えられました。

第一に、イエス様が帰って来られるとき、それを誰も見逃すことはできないということです。イエス様はこう言われました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカの福音書17:324)

第二に、イエス様は突然現れます。

その日は、普段と変わらない一日として始まります。人々はいつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりするでしょう。ところが、突如としてイエス様が来られ、裁きが始まるのです。

第三に、義人は死に至る裁きを経験することはありません。イエス様はこう言われました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出て行ったとき、裁きが訪れました。同じように、イエス様が来られるとき、義人が悪者から分けられたあとで、裁きが下ります。

第四のポイントは、イエス様が来られるとき、もしあなたが神様との関係を持っていなければ、あなたは裁かれるということです。あなたの友人や、妻、夫、親族が素晴らしいクリスチャンであったとしても、その関係があなたを救うことはできません。

だから、イエス様はこう言われました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確実であるということです。イエス様はこの教えを次の言葉で締めくくられました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが集まるのは確かです。同じように、霊的に死んだ者がいれば、裁きが下るのは確実です。

だから、あなたは自分自身に問いかけなければなりません。あなたは準備ができていますか。あなたの心は整っていますか。あなたはこの世のものに執着していますか。それとも、神様を愛しているでしょうか。

裁きの日には、あなたの心の隠されたものが明らかになります。

イエス様が来られると、イエス様を愛している人々は喜んで迎えます。

しかし、この世のものに執着する人々は、持ち物を失うことを恐れるでしょう。

だからこそ、イエス様は弟子たちに警告されました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁かれたとき、ロトの妻はソドムでの生活に執着し、後ろを振り返りました。結果として、彼女も裁かれることになりました。

もしあなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が来られるとき、あなたも裁かれることになるでしょう。

あなたの心のあり方はどうでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ11章

心にあるもの

この箇所では、イエス様はパリサイ人を厳しく批判されます。なぜなら、彼らの心は汚れていたからです。

パリサイ人の外見はとても清く見えました。彼らは律法を細かく守っていました。しかし、実際には彼らは偽善者でした。

例えば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげましたが、貧しい人を見ても助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛していたからです。

また、彼らは神様の愛と知恵を持たずに、周囲の人々をすぐに裁いていました。そのため、イエス様が安息日に人々を癒された時、彼らはイエス様だけでなく、癒された人々さえも批判しました。(ヨハネ 9章)

彼らは預言者ミカの言葉を完全に忘れていました。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)

だから、イエス様は彼らを批判されました。

さらに、イエス様は彼らのプライドも指摘されました。彼らがリーダーになろうとした理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためだったのです。

そのため、イエス様はこう言われました。

おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(ルカの福音書11:44)

どうしてイエス様はそう言われたのでしょうか。神様の律法によれば、墓は不潔なものとされていました。その墓に触れると、儀式的に不潔になってしまいます。

つまり、イエス様が意味されたことは、「あなたたちは汚れており、あなたと関わる人も汚れてしまう。それに、彼らはあなたを聖いと思っているため、あなたに触れたとき、自分が汚れたことにまったく気づかない。」ということです。

厳しい言葉ですね。

しかし、真理は時に厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理を理解しなければなりませんでした。

彼らは周囲の人々を欺いたかもしれませんが、神様を欺くことはできませんでした。悔い改めなければ、彼らは裁かれるでしょう。残念なことに、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。

あなたはどうでしょうか。外見は清くても、心は汚れていませんか。

宗教的な行いだけでは不十分です。ただ教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。

もし心の中にプライドや貪欲があるなら、その行動は意味を成しません。もし愛がなければ、あなたの良い行動は無意味なのです。

あなたには、神様への愛が必要です。そして、周りの人々への愛も必要です。

神様はあなたの心を見抜かれます。神様は、ご自身の御心に適う者を探されています。

あなたの心には何が入っていますか。

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マタイの福音書のデボーション

聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。

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マタイの福音書 マタイ15章 マルコの福音書 マルコ7章

本当に不潔なもの

多くの人々はモーセの律法を読むと、どうしてユダヤ人たちが聖いものと不潔なものに関するさまざまな律法を持っているのかと疑問に思うかもしれません。

一部の律法は、健康や衛生上の理由から与えられたのかもしれません。

とはいえ、神様はユダヤ人にさらに重要なことを教えたいと思われたのです。それは、いくつかのものは人を汚すということです。

物理的な聖いものと不潔なものは、霊的な聖いものと不潔なものの象徴でした。

神様が本当に伝えたいのは、「あなたが完全に聖い者になるべきだ」ということです。体だけでなく、霊も聖くならなければなりません。

残念ながら、ユダヤ人たちは物理的な聖さにあまりにも集中しすぎたため、神様の本質的な教えを見逃してしまいました。

そのため、イエス様がこう言われたとき、弟子たちは非常に混乱しました。「外側から人に入って、人を汚すことができる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」

弟子たちは幼少のころから、「このものを食べてはいけません。そのものを食べてはいけません。そのものを食べると汚されます」と教えられてきました。

だから、彼らはイエス様に尋ねました。「ええ?どういう意味ですか。私たちは、特定のものを食べると私たちが汚れると教えられました。」

そこで、イエス様はこう答えられました。

あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。。。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:18-23)

イエス様の意味はとても分かりやすいと思います。だから、私はこれだけを尋ねます。

あなたの心には何が入っていますか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実が入っていますか。もしそうなら、それらは自然とあなたの口や人生から流れ出ます。

しかし、もしあなたの心に悪い考えや不品行などが入っているなら、それらもまた自然とあなたの口や人生から流れ出ます。そして、それらがあなたを汚してしまうのです。

あなたの口から何が流れ出ているでしょうか。あなたの人生から何が流れ出ているでしょうか。

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種まきのたとえ話:私たちの心の状態

以前、イエス様はさまざまなたとえを用いられましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫が多くの種をあちらこちらに蒔きました。おそらく、もっと効率的な方法があったかもしれませんが、その時代の農夫たちはこのようにして種を蒔いていました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人を象徴しています。けれども、残念ながら、その人はその言葉を理解できず、理解しようとも思いませんでした。

私は前に述べたように、たとえ話は本当に学びたいと思った人と、ただエンターテインメントを求める人とを区別しました。

イエス様の弟子たちのように学びたい人々は、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。一方で他の人々は意味が分からないまま帰りました。

彼らはイエス様の話を楽しんだかもしれませんが、そのたとえ話の意味を理解せず、理解しようとも思わなかったのです。その結果、サタンがその言葉を奪い、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

また、他の種は岩地に落ちました。岩地とは、石灰岩の上に薄い層の土がある場所です。その土は浅かったため、種はすぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。

このような人々について、イエス様は次のように言われました。「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったのでしょうか。おそらくそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったからです。

もしかすると、彼らには一時的な感情的経験だけがあったのかもしれません。けれども、その感情がなくなり、「信仰」のために迫害が訪れたとき、彼らはすぐにキリストに背を向けてしまいました。

また、他の種はいばらの中に落ちました。ところが、「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」(マルコ4:7)

このような人々について、イエス様はこう言われました。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4:19)

多くのクリスチャンがそのような生き方をしています。この世を愛しすぎるあまり、イエス様に対する愛を忘れてしまうのです。

最後に、ある種は良い地に落ち、たくさんの実を結びました。このような人々は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、そしてずっとその言葉を覚え続けます。そのため、彼らは神様の国のために豊かな実を結びます。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

神様の言葉がわからないとき、あなたはその言葉をただ置いておくだけでしょうか。それとも、その意味を求めるでしょうか。誰かに尋ねるでしょうか。

私たちは質問することで成長します。けれども、もし私たちが尋ねないままでいるなら、全く成長することはありません。そして、サタンが神様の蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、ただ感情的な経験だけを求めていませんか。感情は移り変わるものです。もし感情に基づいて信仰を築こうとするなら、その信仰はすぐに崩れてしまいます。むしろ、あなたの信仰はイエス様とそのみ言葉に基づいて築かなければなりません。

あなたは毎日、何を求めているでしょうか。

すべてに優先して、神様を求めていますか。それとも、お金、快楽、持ち物を求めるあまり、神様のために時間がなくなってしまっていますか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めることを忘れてしまっていませんか。

それとも、あなたは神様のみ言葉を聞き、その意味を理解しようとしていますか。その言葉を受け入れ、信じ、心に刻んでいることで、豊かな実を結んでいますか。

あなたの心の状態は、今どのようなものですか。

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マタイの福音書 マタイ12章

私たちの口から出る言葉

私は汚い言葉を聞くとき、本当に気になります。特に、クリスチャンがそのような言葉を使うとき、心が痛みます。なぜなら、私たちの言葉は、心の中にあるものを反映しているからです。

パリサイ人たちが「イエス様は悪霊につかれている」と非難したとき、イエス様は次のように答えられました。

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33-37)

つまり、彼らの堕落した言葉は、彼らの堕落した心を表していたのです。

だからこそ、イエス様は私たちの無駄な言葉でさえも裁かれるとおっしゃいました。なぜなら、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表すからです。

もし私たちの心が良い実で満たされているなら、私たちの口からは良い言葉が流れてきます。しかし、私たちの心が腐ったもので満たされているなら、腐った言葉が口から流れてくるのです。

だから、もし腐った言葉があなたの口から出るなら、驚かないでください。それは、あなたの心がそのような状態であることを示しているのです。そして、もしそんな腐ったものが心にあるなら、あなた自身の心を探り、悔い改める必要があります。

もしあなたの心に苦々しい思いが満ちているなら、苦々しい言葉が口から出ます。もしあなたの心が汚れているなら、汚い言葉が口から出ます。

あなたの心には、何が満ちていますか?あなたの口からは、何が流れ出ていますか?

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マタイの福音書 マタイ6章

山上の説教:私たちの動機

山上の垂訓において、イエス様はしばしば私たちの心にあるものを指摘されます。

この箇所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけでなく、私たちの動機も見ておられると教えます。

それゆえ、イエス様はこう教えます。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)

そして、イエス様は三つの例を挙げられます。

一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするときに人々に認められたがる人がいました。彼らは、皆の前で貧しい人々にお金を渡しました。

けれども、イエス様は次のように言われました。「そうすれば、神様から報いを受けることはできません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めたからです。あなたは、すでに周りの人々から報いを受けました。」

次に、イエス様は祈りについて話されました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で長い祈りをする人がいました。おそらく、あなたも誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているのか疑問に思ったことがあるかもしれません。

最後に、イエス様は断食について話されました。断食するとき、自分がかわいそうだという顔をする人がいました。そのため、周りの人々は「あの人は断食している。本当に霊的な人だ」と思ったのです。

しかし、イエス様によれば、神様はそのような断食に対して報いを与えられません。むしろ、神様は周りの人々に見えない行動を褒められます。なぜなら、その行動は神様への愛のために行われたものだからです。

相手を批判するのは簡単なことですが、あなた自身はどうでしょうか。周りの人々があなたについてどう思うかを気にしていないでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがっているでしょうか。

それとも、あなたは本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。

周りの人々をだますことはできても、神様をだますことはできません。ただ正しいことをするだけでは十分ではありません。正しい動機が必要なのです。

では、正しい動機とは何でしょうか。それは、神様に対する愛、そして周りの人々に対する愛です。神様の目には、他の理由はまったく重要ではありません。

神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外に向かうものです。

けれども、私たちの焦点が内に向き、つまり周りの人々が私たちをどう見ているかばかりを考えるようになると、私たちの良い行いは神様の目には価値を失ってしまいます。

実を言うと、私も自分の動機についてよく戦っています。いつも自分自身に問いかけます。

「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。教会でメッセージをする時、私は自分の霊的さで人々を感動させようとしているのだろうか。それとも、神様が本当に私を通して話しておられるのだろうか。私は誰の歓心を買おうとしているのだろうか。」

あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:律法を成就するお方

多分、イエス様がパリサイ人たちや律法学者と安息日について言い争いを始められた後で、イエス様はこの言葉を言われたのだと思われます。イエス様は、すでに何度も安息日に人々を癒しておられたことでしょう。

それでも、イエス様は、はっきりと言われました。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(5:17)

どのように、イエス様は律法や預言を成就されたのでしょうか。それは、大体三つの方法で成就されました。

一つ目は、イエス様がメシアの預言を成就されたことです。

二つ目は、イエス様が他の人にはできないことをされたことです。つまり、イエス様は律法を完全に守られました。そのため、イエス様は私たちの罪のために死ぬことがおできになりました。

パウロはこう書いています。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ書8:3-4)

三つ目は、イエス様の死によって、イエス様は神様が要求されたすべてのいけにえを成就されたことです。

ヘブル人への手紙の著者によれば、神様はそのいけにえを要求されましたが、そのいけにえは私たちの罪を本当に清めることができませんでした。そのいけにえは、ただイエス様の十字架の働きの一つの「画」となるものでした。

しかし、今やイエス様にあって私たちの罪は清められ、赦されたので、そのいけにえはもう必要ありません。イエス様にあって、そのいけにえは成就されました。(ヘブル10:1-18)

律法はイエス様にあって成就され、私たちは神様の目には清い者となりました。それでも、律法は神様の聖さについて教え、私たちがどんな人になるべきかを示します。

そして、神様が聖なる方であるため、私たちも聖い人生を生きるべきです。

もちろん、私たちは自分の救いを買おうとは思いません。

けれども、聖霊様は私たちの心に住まわれ、私たちが清い人生を歩むよう助けてくださいます。

以前、私たちには清い人生を送る力がありませんでした。しかし、今神様は私たちと共におられ、神様がそもそも私たちをデザインされたように生きる力を与えてくださいます。

そして、イエス様は、私たちに警告を与えられます。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(20)

たぶん、ユダヤ人たちはそれを聞くと、面食らったことでしょう。なぜなら、パリサイ人たちと律法学者は、一番律法を守る人とみなされていたからです。彼らはその律法を守るために、たくさんの余計なルールを立てました。

しかし、本当の義は、律法の文字通りに守ることだけではありません。本当の義は心から来ます。もしあなたの心が神様の目に悪ければ、どんな良いことをしても神様にその行動を認めてくださいません。

だから、イエス様はパリサイ人たちと律法学者を本当に責められました。彼らが正義とあわれみと誠実を全く知らなかったからです。(マタイ23:23)

あなたの心はどうでしょうか。あなたは正しいことをしているかもしれませんが、あなたの心は神様の目に正しいでしょうか。神様は、あなたの心について何と言われますか。

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イザヤ書

神様のために私たちの心を準備する

それでは、新約聖書を始めましょう。

もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。

「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。

けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。

聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。

そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。

同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。

旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。

しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。

だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊

イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。

荒野に呼ばわる者の声がする。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)

イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。

この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。

では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。

一つ目は、

すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)

つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。

だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。

私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。

二つ目は、このことを思い出しましょう。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)

つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。

私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。

しかし、神様は決して変わることがありません。

もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。

イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。