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マタイの福音書 マタイ7章

山上の説教:心が広ければ良いとは限らない

日本では、よくわからないけど、西洋で、クリスチャンに対してよく言われた文句は、「あなたたちの心は本当に狭い」ということです。

彼らは、いつもこう言います。「あなたの心がもっと広ければいいのに。」

特に、彼らはこう尋ねます。「どうしてイエスだけが天国への道だと言うのですか。」

でも、場合によっては心が広ければいいというものではありません。例えば、数学です。

もし、児童が試験で「2+2=10」と書いたので、先生が「X(バツ)」と書いたら、児童はこう言えません。

「先生。心がもっと広くなった方がいいと思います。10でも4でも、別に違いがないでしょう?」

治療に関しても、そんな考え方はだめです。ちょっと想像してください。

あなたの腎臓の一つが悪いので、摘出しなくてはなりません。あなたは麻酔をされて、そのあと起きたら、腎臓が両方まだ残っていて扁桃腺が摘出されていました。

あなたは混乱して、こう訊きます。「先生。どうして、私の扁桃腺を摘出したのですか。」

「いや、心が広くなった方がいいよ。腎臓を摘出か、扁桃腺を摘出か、大体同じでしょう?」

それはバカな話ですよね?

でも、永遠の命は、もっと大事な話です。もし数学や治療の場合、広い心では何の意味もないなら、なおのこと、永遠の命の場合、広い心でいてはだめでしょう。

だから、イエス様はこう言いました。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13-14)

イエス様の言葉によれば、私たちは、自分の条件を作って、神様に近づくことができません。あなたが神様に近づきたいなら、神様の条件を満たすべきです。

ある人はこう言いました。「あなたは自分の道で地獄に行けるけど、天国に行きたいなら、神様の道を行かなくてはなりません。」

神様の道は何でしょうか。イエス様はこう言いました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

少し考えてみてください。もし他の道があったなら、どうしてイエス様は十字架で苦しみ、死ななければならなかったのでしょうか。もし他の方法があったなら、十字架は必要ではなかったはずです。

他の方法を求めることは、イエス様の犠牲を侮ることに他なりません。それはまるでこう言っているようなものです。「イエス様、あなたは愚かでしたね。救いのためにはもっと良い方法がありましたよ。」

誤解しないでください。心が広いことが良い場合もあります。しかし、永遠の命に関しては、そのように考えるべきではありません。

さて、あなたの場合はどうでしょうか。あなたは自分なりの条件を作って永遠の命を求めていますか。それとも、神様の条件を満たしているでしょうか。つまり、イエス様をあなたの救い主であり、主として受け入れているでしょうか。