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ルカの福音書 ルカ1章

心のすべてを神様に捧げる?

神様がイエス様を送られたとき、どうしてマリヤを選ばれたのでしょうか。おそらく、彼女の心が完全に神様のものであったからでしょう。彼女は自分の心のすべてを神様に捧げ、神様に従っていました。

この箇所では、マリヤの心を見ることができます。

ザカリヤに現れてから6か月後、ガブリエルはマリヤに現れました。彼はこう言いました。

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(ルカの福音書1:28)

マリヤはその言葉を聞いて、本当に戸惑いました。そこで、ガブリエルはさらに続けました。

こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(30-33)

マリヤは確かにその言葉を理解しました。イスラエルの女性たちの誰もが、自分の子がメシアとなることを望んでいました。とはいえ、彼女には非常に論理的な質問がありました。

どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。(34)

つまり、彼女はまだ結婚しておらず、男性と関係を持ったことがありませんでした。

そこで、ガブリエルは答えました。

聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(35)

たくさんの人はそれを聞いて、「まさか。クリスチャンはそれを本当に信じているのか」と言うかもしれません。

けれども、現代では、そのようなことが起こる場合があります。時々、カップルが子どもを授かれないとき、配偶者間の人工授精によって、その女性が妊娠することができます。私たちは、お医者さんができることを神様ができないとは言えるでしょうか。

しかし、その時代にはそのような技術はありませんでした。そのため、ガブリエルはマリヤにとってその言葉が受け入れにくいことを知っていました。そこで、彼はこう言いました。

「あなたの親戚エリサベツのところに行きなさい。皆が彼女は子どもを持てないと言っていましたが、今、彼女は妊娠しています。神様にとって不可能なことは一つもありません。」

マリヤはそれを聞き、答えました。

ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(38)

マリヤはもう質問することはありませんでした。むしろ、その言葉を信じて、神様にすべてを捧げました。

けれども、少し考えてみてください。彼女がすべてを失う可能性は非常に高かったのです。彼女が妊娠したとき、評判は汚されてしまうでしょう。家族や周りの人々はどのように考えるでしょうか。

また、婚約者のヨセフはどう思うでしょうか。彼女が妊娠したら、彼は結婚を取りやめるかもしれません。さらに、イスラエルの律法によれば、彼には彼女を殺す権利がありました。

誰が、神様の聖霊によって彼女が妊娠したことを信じるでしょうか。

それでも、マリヤはこう言いました。「これがあなたの御心であるなら、その御心に従います。たとえすべてを失っても、私は従います。」

彼女は神様から他の約束を与えられることはありませんでした。神様は彼女の結婚を守ることを約束されませんでした。また、彼女の評判を守ることも約束されませんでした。

それでも、彼女は神様が良い方であることを信じ、神様の計画も良いものであると信じていました。

これこそ、神様に属する心です。マリヤは自分の心を神様に捧げたことで、神様は彼女を通して素晴らしいことを行うことができたのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心は神様に属しているでしょうか。神様に従うために、すべてを捧げることができるでしょうか。

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エゼキエル書

神様に心を捧げる?

この箇所では、神様がイスラエルの民の帰国について語られます。

それはまだ遠い未来のことでしたが、彼らが帰国する時のために、神様はいくつもの命令を与えられました。

その大部分は、何百年も前に神様がモーセに伝えられた命令を繰り返すものです。特に43ー44章では、それが明確に示されています。

けれども、一つの箇所が特に私の心に深く響きました。

あなたがたがその地を相続地として、くじで分けるとき、その地の聖なる区域を奉納地として主にささげなければならない。。。

その周囲の全域は聖なる地である。。。

そして、その中に聖なる至聖所があるようにせよ。(エゼキエル書45:1,3)

つまり、「私たちがあなたに与えた土地に帰る時、私のために場所を整えなさい。なぜなら、私はあなたの主であり、あなたがたの中に住むからです。」

私はそれを読むとき、ペテロの言葉を思い出します。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。(第一ペテロ3:15)

それはどういう意味でしょうか。それは、神様にあなたの心の王座を捧げることを意味します。そして、神様だけのために、あなたの心を整えることです。

その後、神様は別の命令を与えられ、君主たちにこう言われました。

イスラエルの君主たちよ。もうたくさんだ。暴虐と暴行を取り除き、公義と正義とを行なえ。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。(エゼキエル書45:9)

神様は私たちにも同じことを語っておられます。もし私たちが神様を主としてあがめるなら、自分の罪を止め、神様の目にかなった正しいことを行うべきです。

また、神様は祭司たちに雄牛をいけにえとして捧げるよう命じられました。そして、その血を用いて聖所を清めなければなりませんでした。彼らはそれを毎年行う必要がありました。

このように、私たちも清い聖所を保ち続けるべきです。

つまり、私たちの体が神様の宮であるため、私たちは自分の罪を告白しなければなりません。そして、イエス様の血によって清められ、神様が私たちの罪を赦してくださるよう祈るべきです。

神様はその祭司たちにこう言われました。

あやまって罪を犯した者やわきまえのない者のためにこのようにし、宮のために贖いをしなければならない。(20)

私たちは意識的に罪を犯していなかったかもしれません。しかし、その罪のためにイエス様は贖いをしなければなりませんでした。

だからこそ、ダビデが祈ったように、私たちも次のように祈るべきです。

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(詩篇19:12-13)

そして、神様はイスラエルの民に過越の祭りを守るよう命じられました。その祭りの時、彼らは神様がイスラエルの民をエジプトから救い出されたことを思い起こしたのです。

同じように、私たちもサタンの国と罪から救い出されたことを思い起こすべきです。なぜなら、私たちはしばしば、なぜ神様に心を捧げるのかを忘れてしまうからです。

その理由は、神様が私たちを愛しておられること、そして神様の救いに感謝することにあるのです。ヨハネはこう書きました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。第一ヨハネ4:19)

46章では、供え物に関する内容の中で、神様は45章のテーマを再び繰り返されています。

全焼のいけにえは、罪の贖いのためのものでした。さらに、イスラエルの民は神様に心のすべてを捧げることを表しました。(そのいけにえは完全に燃やされました。)

穀物のささげ物は、神様への感謝を表すためのものでした。

和解のいけにえも、全焼のいけにえと同じく、贖いのためのものでした。つまり、捧げられた動物は人の代わりに、その人の罪のために命を犠牲にしたのです。

けれども、もうひとつの意味が込められていました。それは、その動物の血によって、私たちには神様との間に平和があることを示すということです。

最後にもうひとつ重要な点があります。

イスラエルの民が礼拝のために宮に来たとき、一つの門を通りました。(北の門でも、南の門でもよかったのです。)

しかし、帰るときには、必ず反対側の門を通らなければなりませんでした。

なぜでしょうか。それは、おそらく、私たちが神様の前で礼拝をすることで心が変えられるからではないでしょうか。

イエス様の血によって、私たちは清められ、神様の目には義と認められました。そして、イエス様は私たちの心の王座に座っておられます。

その結果、私たちは新しい人として生まれ変わるのです。

パウロはこう書きました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

新しく造られた者として、毎日、神様に心を捧げましょう。