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サムエル記第二のデボーション

神の忠実な愛を受ける者として

王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵み(つまり、忠実な愛)を施そう。」(サムエル記第二9:3)

上の言葉は、私の心を打ちました。

第二サムエル記7章では、神様がご自分の忠実な愛をダビデに与えられ、ダビデは圧倒されました。

けれども、ダビデは神様に感謝しただけではありませんでした。

むしろ、ダビデは他の人々への神の忠実な愛のパイプラインになりたいと願っていました。

だからこそ、彼は積極的に、誰にその愛を与えられるかを探しました。

ヨナタンへのダビデの愛と約束のゆえに、メフィボシェテが選ばれたのは当然のことでした。(第一サムエル記20:14–15)

しかし、ダビデはメフィボシェテに、自分の忠実な愛だけでなく、神の忠実な愛を示したかったのです。

だから、この話の中で、ダビデはそのように行動しました。

主よ、私は周りの人々への、あなたの忠実な愛のパイプラインになりたいと願っています。

ダビデのように、私が積極的に、誰にあなたの愛を示すことができるかを探すように、私を助けてください。

そして、私と共にいるその人が、あなたの忠実な愛に圧倒され、喜びをもって叫びます。

「いったい私は何者なのでしょうか。神様がこのように私を愛してくださっているとは!」

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箴言のデボーション

神様の忠実な愛

恵みとまことによって、咎は赦され、主を恐れることによって、人は悪を離れる。(箴言16:16)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「自分の忠実な愛によって、自分の罪が赦されるなら、私たちは本当に困ります。」

なぜなら、私たちの愛はあまり忠実ではないものだからです。

しかし、神様の忠実な愛によって、私たちの罪は赦されます。 新改訳聖書の言葉を借りれば、神様の恵みとまことによって、私たちの咎は赦されます。

私たちが神様に忠実でなかったときも、神様は私たちに忠実でいてくださいました。

だから、私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死なれました。(ローマ5:8)

自分の罪のゆえに、私たちは神様の怒りを受けるにふさわしく、死に値する者でした。(ローマ5:14)

けれども、十字架で、イエス様は天の父の怒りをなだめてくださいました。

だから今、神様が私たちをご覧になるとき、天の父の御顔は明るくなります。天の父のいつくしみは、後の雨(つまり、春の雨)をもたらす密雲のようです。(ホセア6:3)

イエス様を通して、私たちは神様の恵みとまことを知ることができます。(ヨハネ1:17)

だから、神様の恵みとまことに思いを巡らしましょう。神様の忠実な愛について考えましょう。イエス様の御業によって与えられた神様の慈しみを噛み締めましょう。

そして神様を畏れ、喜びましょう。