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詩篇のデボーション

あなたがあインマンヌエルであるゆえに

たとえ死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたがともにおられますから。(詩篇23:4)

イエス様、これは本当に乱れた世の中です。

けれども、あなたがインマヌエルであるゆえに、この世の民が恐れることを、私は恐れません。(イザヤ書8:12)

この世の民が心配することを、私は心配しません。(マタイ6:25~34)

この世の民は怒りに駆られるかもしれませんが、私はそうしません。(ヤコブ1:19~20)

むしろ、私の良い羊飼いよ、あなたを信頼し、待ち望むことを選びます。(イザヤ書8:17)

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詩篇のデボーション

この壊れた世界を見るとき

拠り所が壊されたら
正しい者に何ができるだろうか。(詩篇11:3)

ニュースやSNSを見るたび、私は自分の心を導くことを思い起こさなければなりません。

この世のよこしまを見るとき、思い悩むのは容易です。

けれども、王はまだみ座におられます。 立ち去られないのです。

イエス様はすべてをご覧になります。 そして、この世に帰ってこられると、すべての人を裁かれるのです。(4~6)

その日、この世は癒され、私は私の王の御顔を見るのです。(7)

その間、私は自分の恐れや怒りや心配を脇へ置くことを選びます。

そして、私の良い王に信頼することを選ぶのです。

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サムエル記第一のデボーション

怒りに流されて

あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。。。

主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。(サムエル記第一25:28、30~31)

アビガイルの言葉は私の心を打ちました。

ある英訳では、「あなたのうちには、一生の間、悪が見出されないように」とあります。

それが私の願いです。

私は自分の誤った選択によって、後悔や痛む良心を抱えて苦しみたくありません。

しかし、私の感情、特に怒りに流されるとき、それは起こりがちです。

ダビデもまた、その怒りによって危うく流されてしまうところでした。

私はもちろん人を殺すほど怒ったことはありませんが、愚かなことを言ったり、行ったりした経験は思い出すことができます。

私はそのようなことをもうしたくありません。

天のお父さん、どうか私の心を守ってください。特に怒りから守ってください。

怒りに流されるのは容易ですが、それは私にあなたの望まれる人生をもたらすものではありません。

どうか私のうちに、一生の間、悪が見出されないようにしてください。むしろ、この口と心にあるものがあなたの御目にかないますように。私の主よ、私の岩、私のあがない主、私の良い神よ。

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コロサイ人への手紙のデボーション

困難のときの祈り

天のお父さん、ニュースやSNSを見るとき、この世の悪は明らかです。

だから、私たちの心が騒ぐのは簡単です。

でも、あなたは教会を選ばれ、私たちは聖なる、愛されている者です。(コロサイ人への手紙3:12)

私たちがその身分を覚えていられるように助けてください。

それを覚えて、怒り、憤り、悪意、罵りを捨てることができるように助けてください。この世はそれらによって特徴づけられていますが、私たちがあなたのかたちに従って新しくされ続けるようにしてください。(8、10節)

私たちが深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けるようにしてください。そして、そのすべての上に、私たちが愛を身に着けるようにしてください。

あなたの平和が私たちの心を支配するようにしてください。(15節)

あなたのことばが私たちのうちに豊かに住むようにしてください。私たちが知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心からあなたに向かって歌うようにしてください。(16節)

最後に、言葉であれ行いであれ、何をするときにも、あなたに感謝する心をもって、主イエスの御名によって行うようにしてください。(17節)

この困難に満ちた世界では、私たちが怒りや恐れに支配されるのではなく、あなたの愛、喜び、平和に治められるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第一のデボーション

不機嫌になり、怒る?

アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。(列王記第一21:4)

イエス様によれば、私たちは神の御国に入るために、子どものようになるべきです。

しかし、イエス様が言われた「子どものように」とは、アハブのような態度を取ることではありませんでした。

アハブは王でした。神様はアハブにイスラエルを委ねられました。けれども、アハブは駄々っ子のように振る舞いました。

「アハブは不機嫌になり、激しく怒った」と聖書には二度書かれています。

最初の場面では、神様がアハブを叱責されたため、アハブは不機嫌になりました(列王記第一20:43)。

今日の箇所では、ナボテが自分のぶどう畑を売ることを拒んだため、アハブは不機嫌になりました(列王記第一21:4)。

この話を読んで、私はこう思いました。

「私はアハブのように振る舞うことがあるだろうか。幼い子どものように、不機嫌になって怒ることがあるだろうか。」

神様は私の人生の中で一つのことを指摘されたので、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうでしょうか。

不機嫌になって怒ることがあるでしょうか。

それは上司に対してでしょうか。夫や妻に対してでしょうか。彼や彼女に対してでしょうか。友人に対してでしょうか。

もしかすると、神様に対してのことなのでしょうか。

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サムエル記第二のデボーション

いつまで?

いつまで私たちは怒りや苦々しい思いを持ち続けるでしょうか。

いつ、その怒りと苦々しい思いを手放すのでしょうか。

アブネルはヨアブの弟アサエルを殺していたため、ヨアブともう一人の弟アビシャイはアブネルを殺そうとしました。

しかし、彼らがアブネルを追うにつれて、他の兵士たちも殺されていきました。

そして、太陽が沈んでもヨアブとアビシャイが諦めようとしないのがわかったとき、アブネルは彼らにこう言いました。

いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(サムエル記第二2:26)

後の章で見るように、ヨアブは非常に暴力的な人でした。(アビシャイも暴力的な人でした。)それでも、その日、彼はアブネルの知恵を認めて、帰りました。

あなたはどうでしょうか。心の中に、どんな傷を抱えているでしょうか。

許せない人がいるでしょうか。

自分の怒りのゆえに、相手を傷つけ続けようとしているでしょうか。

私たちの主の言葉に耳を傾けましょう。

「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

あなたの怒りを手放しなさい。あなたの痛みを私に委ねなさい。そうすれば、私はあなたを癒します。」

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出エジプト記のデボーション

怒りを覚えるとき

こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。(出エジプト記11:8)

その言葉は私の印象に残りました。

どうしてモーセはそんなに怒りを覚えたのでしょうか。

たぶん、彼はファラオの頑なな心に対して怒りを覚えたのでしょう。また、モーセは、ファラオが神様の民をどのように酷使したかについても怒ったのかもしれません。

モーセの怒りは清いものだったでしょうか。

それは少し微妙です。モーセは人間でしたから。

自分の怒りによって、モーセが困難に陥ったこともありました。(出エジプト記2:11–12、民数記20:10–12)

それでも、クリスチャンの生活には、怒りの余地があります。特に、人々の頑なな心を見るとき。また、この世界の中の不正を見るときです。

イエス様も怒りを覚えられたことがありました。(マルコ3:5、11:15–17)

しかし、注意しなくてはならないのは、私たちがその怒りを感じた後に、どうするかということです。

パウロはこう言いました。

怒っても、罪を犯してはなりません。

憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが覚えておかなくてはならないのは、人々の頑なな心やこの世の中の不正の中で、神様が計画を持っておられるということです。その最終的な計画は、人々を救うことです。

ファラオの頑なな心は神様の計画の一部であり、神様はイスラエル人の救いをもたらされました。

また、ユダヤ人の指導者たちの頑なな心によって、イエス様が十字架にかけられ、神様は私たちの救いをもたらされました。

だから、怒りを覚えるとき、私たちはどうすればよいでしょうか。

怒ってもかまいません。でも、罪を犯してはいけません。サタンに私たちを操る機会を与えてはいけません。

人々の頑なな心のために罵ることは、神様の救いをもたらすはずがありません。

世界の中の不正を呪うことも、神様の救いをもたらすはずがありません。

むしろ、神様の愛によって人々に触れることによって、私たちは神様の救いを目にします。

その救いを見たいなら、私たちはイエス様の恵みとまことの模範に従わなくてはなりません。

イエス様は真理を曲げられたことがありません。むしろ、イエス様は人々の罪を指摘されました。(ヨハネ4:16–18)

イエス様は、神様の言葉に関する人々の無知を指摘されました。(マタイ22:29)

人々が神様の言葉を曲げたとき、イエス様はそれをも指摘されました。(マタイ5:43–44)

それでも、イエス様は罪人の仲間と呼ばれました。(マタイ11:19)

私たちはどうでしょうか。

私たちも罪人の仲間と呼ばれるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

仲間を赦さない悪い家来のたとえ話:憐れみか火か:どちらで塩気がつけられる?

マタイ、マルコ、ルカの三人は、同じ事件について語っています。その話をまとめることは本当に興味深いものです。

けれども、この話の最初に戻りましょう。それは、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたことです。

おそらく論じ合う中で、多くの酷い言葉が交わされ、人々は深く傷ついたでしょう。そのため、イエス様は私たちが傷ついた時、どのように対応するべきかを教えてくださいました。

その後、ペテロがイエス様に質問をしました。おそらく他の弟子たちは彼を傷つけたことでしょう。それが初めてではなく、おそらくこれからもペテロは傷つけられることがあるでしょう。そのため、ペテロはイエス様に問いかけたのです。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

おそらく、ペテロは相手を七回赦すことが寛容な態度であると考えたのでしょう。その時代、多くの先生たちは三回赦すことが適切であると教えていました。(「ただし、聖書にはそのような教えは記されていません。)

しかし、イエス様はこう答えられました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

イエス様が意味されたことは、私たちが490回まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えることなく許さなくてはならないのです。

そして、イエス様は有名なたとえ話を語られました。

ある王が、しもべの大きな借金を免除しました。けれども、そのすぐ後、そのしもべは別の人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸していたため、返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ込みました。

王はそのことを聞いたとき、そのしもべを呼びました。そして、しもべが来た時、王はこう言われました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

そのため、借金をすべて返済するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言われました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとって、仲間が返済しなければならなかった借金は大きなものでした。それは約4か月分の給料に相当しました。

けれども、その借金をしもべが王に返済しなければならなかった借金と比べると、非常に小さいものでした。その額は何億円にも及ぶものでした。

時々、人々は私たちを傷つけ、その傷は本当に深いものです。とはいえ、私たちの神様に対する負債の方がはるかに大きいのです。私たちは自分の罪が小さいものだと思うことがあるかもしれませんが、実際にはその罪は積み重なります。

もし、あなたが毎日罪を3回ほど犯すとすれば、それは1年間で約1000の罪になります。そしてその数字をあなたの年齢に掛けると、何千もの罪になるのです。

それにもかかわらず、神様はあなたの罪をすべて赦してくださいました。だからこそ、私たちも他の人々を許すべきです。

では、もしそうしなかった場合にはどうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ込んだ時、その仲間は罪悪感に浸りました。

私たちも、しばしば同じような行動を取ります。私たちは相手を許さず、その縁を切ります。そして私たちは、相手が罪悪感に浸ることを望んでいるのです。

しかし、例え話では、王はそのしもべの行動を知った時、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は囚人を見張るだけでなく、その囚人を拷問する役割を担っていました。

同じように、私たちが相手を許さないなら、神様が私たちをサタンに引き渡すことがあると思います。(異なる文脈ですが、第一コリント5:5をご参照ください。)

その結果、サタンは私たちを苦しめ、私たちは自分の怒りや苦々しい思いに浸ることになります。

なぜ神様はそのようなことをされるのでしょうか。それは、私たちを憎んでいるからでしょうか。違います。それは、私たちが悔い改めることを望んでおられるからです。

いずれにせよ、このたとえ話の後に、もしかしたらイエス様はこう言われたかもしれません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、もしあなたが神様の憐れみによって塩気を付けられないなら、火によって塩気を付けられることになります。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めなものになるでしょう。

そして、イエス様はこう言われました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました。私たちは、この世の人々を憐れみと恵みで味付けする役割を果たすべきです。

けれども、もし怒りや苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちは塩気を失ってしまいます。そのため、イエス様は弟子たちと私たちにこう語られます。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうでしょうか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩の役割を果たしているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき、神様の手を解く?

この箇所は、マタイ16章に似ています。この箇所も少し解釈が難しいです。

マタイ16章では、イエス様は繋ぐことと解くことについて話されています。

何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)

その箇所では、イエス様は神の国と救いについて話されています。新約聖書を読むと、多くの場合、神様が私たちを通して人々に触れたいと望んでおられることがわかります。

私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々にとって、イエス様の目や耳、口、そして手です。

もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解き、多くの人々が救われます。しかし、私たちが福音を伝えないなら、ある程度まで神様の手は縛られてしまいます。

もちろん、私たちが働かなくても神様は働くことができますが、多くの場合、私たちが働かない時、神様は何もしません。

ペテロは二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を伝えました。

それでも、弟子たちはイエス様の命令に従わず、異邦人たちに福音を伝えませんでした。そこで、神様は直接行動を起こされました。神様はペテロに幻を示し、またコルネリオという異邦人に天使を遣わされました。

それは神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を伝えることでした。

それでも、その話の後、神様は天使を遣わず、人々を通して異邦人たちを救われました。弟子たちが福音を伝え、多くの人々が救われたのです。

さらに、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。それによって神様の手が解き、多くの人々が救われました。

とはいえ、この箇所では、その前後は全く異なります。そして再び、イエス様は語られます。

何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

でも、この場合、イエス様が意味されたことは何でしょうか。

私の意見ですが、もし相手があなたを傷つけ、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすることで、私たちが神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

多くの場合、私たちは相手に対する怒りや苦々しい思いに縛られています。私たちは相手のために祈るのではなく、相手について祈っています。

「主よ、彼が何をしたかご覧になりましたか?信じられません。彼を罰してください。」

ところが、十字架の上で、イエス様は敵について祈られたのではありません。イエス様は彼らのために祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始め、さらに救いの業を行われました。

そのように、もし私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

もちろん、私たちが祈らなくても、神様は働くことができます。とはいえ、多くの場合、神様は働く前に私たちの祈りを待っておられることがあります。

けれども、私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、神様の手を縛ることになり、神様は私たちの人生にも、相手の人生にも働かれません。

怒りや苦々しい思いを手放すことは難しいものです。そのため、神様は私たちを支えてくださる兄弟姉妹たちを与えてくださいました。彼らは、和解をもたらすために助けてくれ、私たちのために祈ってくれます。

だから、イエス様はこう言われました。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)

あなたはどうですか。心の中で何か痛みを抱えているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。それとも、その手を解いているでしょうか。

つまり、あなたはただ相手について祈っているのでしょうか。それとも、相手のために心から祈っているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき

私たちが傷つくことは、本当に辛いことです。さらに、私たちが信頼している人に傷つけられると、その痛みはさらに深いものとなります。

おそらく、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていた時、互いに傷つけ合っていたでしょう。イエス様はそれを知っておられたので、彼らにこう言われました。

また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(マタイの福音書18:15)

二つのことに注目してください。

まず第一に、誰かがあなたを傷つけた時、その人があなたの元に来て謝るのをただ待つべきではありません。あなた自身が積極的にその人の元に行き、その問題について話し合うべきです。

多くの場合、私たちは怒り、相手が私たちの元に来て謝るように要求してしまいます。

けれども、その態度は和解の姿勢ではなく、誇りの姿勢です。神様は私たちが平和をつくる者になることを望んでおられます。イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

もちろん、あなたのケンカしている友達を助けるべきです。しかし、あなたが相手と喧嘩している場合には、あなた自身が平和をつくる者となる必要があります。もしプライドを持ち続けるなら、相手と和解することはできません。

さらに、もし相手が意図せずあなたを傷つけた場合、彼らはあなたの傷に気づいていないかもしれません。そのため、私たちがただ待っているだけでは、彼らが謝ることは決してないでしょう。ですから、私たちは積極的に相手のところに行くべきです。

第二に、私たちはゴシップや中傷をしてはいけません。イエス様は「あなたが傷ついた時、皆にそのことを話しなさい」とは言われませんでした。むしろ、イエス様は「行って、ふたりだけのところで責めなさい」と言われました。

もちろん、私たちの希望は、相手が私たちの傷に気づき、そして謝罪することです。

ところで、もし相手があなたの元に来て、そのように責めてきたら、どのように反応すべきでしょうか。特に、あなたが相手が繊細すぎると感じる場合、どのように対応するのが良いでしょうか。

それでも、彼らの感情を大切にするべきです。そして、素直に謝りましょう。また、相手の言葉を心に留めて、次に気を付けるべきことを考えるようにしてください。それこそが、平和をつくる者の態度です。

しかし、あなたが傷ついたにもかかわらず、相手が自分の過ちを認めない場合、どうすれば良いでしょうか。

その場合、イエス様は「二人の人々を連れて行き、その人と話しなさい」と言われました。

もちろん、その二人には状況を正確に説明すべきです。それでも、相手を悪く言うことは避けなければなりません。あなたの目的はあくまで和解です。

実際に、その二人と相談することで、あなた自身が相手を誤解していたことに気づく場合もあるかもしれません。 または、彼らの助けによって、相手が自分の至らなさに気づくこともあるでしょう。

ただし、改めて強調しますが、あなたの目的は和解です。

しかし、相手が聞き入れてくれない場合には、教会にその問題を伝えるべきです。

必ずしも全員の前で公にする必要はありません。 とはいえ、牧師や他のリーダーの助けを求めるのが良いでしょう。

けれども、相手が聞き入れてくれないなら、イエス様はこう言われます。

教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(17)

イエス様が意味されたことは、あなたが相手に対する期待を変えるべきだということです。相手がクリスチャンとしてふるまうことを期待しない方が良いでしょう。

むしろ、彼らをクリスチャンではない人として見た方が良いです。私たちは、クリスチャンではない人がクリスチャンのようにふるまうことを期待しないでしょう。そして、相手が悔い改めない限り、クリスチャンとしての行動をしているとは言えません。

ですから、相手に会うときには気をつけてください。相手が悔い改めないなら、あなたを何度も傷つける可能性があります。

イスラエル人が取税人を避けたように、あなたもできるだけ相手を避けた方が良いでしょう。それでは、なぜ避けるべきなのでしょうか。それはあなたが怒っているからですか。それとも苦々しい思いを持っているからですか。そうではありません。

実際には、その怒りや苦々しい思いを手放さなくてはなりません。そうしなければ、あなた自身がその感情に縛られてしまうからです。

むしろ、相手が危険な人物であるため、その人を避ける方が良いのです。もし彼らが自分の過ちを認めないなら、その人はあなたにとって危険な存在です。ですから、相手を避けてください。

さて、あなたはどうですか。傷つけられた時、どのように対応しますか。

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マタイの福音書のデボーション

聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。

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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:心の中で人々を侮ると

この箇所では、私たちは、イエス様がなぜパリサイ人たちと律法学者たちの律法の解釈を批判されたのかを知ることができます。つまり、彼らは外見だけに注意を払っていましたが、心の状態を完全に無視していたのです。

その一例が殺人についての教えです。イエス様はこう言われました。

昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイの福音書5:21)

もちろん、パリサイ人たちと律法学者たちは、その命令に従っていました。彼らは誰も殺しませんでした。(とはいえ、後に、彼らのせいでイエス様は十字架にかけられました。)

それでも、イエス様続けてこう言われました。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

また、「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(22)

イエス様は殺人だけを指摘されるのではなく、心の態度についても指摘されます。要するに、「あなたは誰も殺していないでしょう。それは良いことです。けれども、あなたの心の中で相手を殺したことがあるでしょうか。」と問いかけられるのです。

心の中で相手を殺すとはどういう意味でしょうか。

相手を殺すとき、あなたの態度はどうでしょうか。あなたはその人を侮っています。「この人には価値がないので、彼は生き続けない方が良い。」という態度を取っています。

もし私たちが相手に「あなたがバカ者だ」と言う時、実際には何をしているのでしょうか。私たちは心の中で相手を侮り、「あなたには価値がない」という態度を取っています。

殺人とは、その態度を極端な程度まで取ることです。しかし、私たちの心がその態度を持ち続ければ、やがて殺人に至るかもしれません。ニュースでは、そうした話を私たちはよく耳にします。

さらに、イエス様は怒りの問題についても指摘されます。怒りは自然な感情です。私たちがいつ怒るかをコントロールすることはできません。それは感情だからです。時には何かが起こり、私たちは怒りを感じます。

それでも、私たちはその怒りをどのように制御するかを決めることができます。私たちは、その怒りをずっと持ち続けるでしょうか。その怒りを抱え込んで、だんだん大きくさせるでしょうか。

ちゃんと制御されない怒りは、次の段階へ進むかもしれません。たとえば、私たちはその人との縁を切ることがあります。最悪の場合、私たちは彼らを殺してしまうこともあります。

そうなれば、イエス様は私たちが裁かれると言われます。また、神様の恵みから離れた結果、私たちは地獄に行くと警告されています。

あなたはどうでしょうか。心の中で誰かを侮っているでしょうか。「彼はろくでなしだ」と考えたことがあるでしょうか。

あなたの怒りによって、誰かと縁を切ったことがあるでしょうか。もしそうであれば、神様の目には、あなたはその人を殺したことになるのです。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

また、

光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。。。

兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(第一ヨハネ2:9,11)

だから、たとえ相手があなたを傷つけたとしても、その人を価値のある人として見なすようにしましょう。なぜなら、実際に彼らには価値があるからです。そのために、イエス様は彼らのためにも、私たちのためにも十字架で死んでくださいました。

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雅歌

怒り、傷、和解

夫婦の関係はいつもスムーズにいくわけではありません。この罪によって壊れた世界では、夫婦が怒りや傷を経験するのは当たり前のことです。それでは、どのように反応すべきでしょうか。

この箇所から、そのことを学ぶことができます。

多くの聖書の解説者によれば、この箇所は夢を描写しています。しかし、結婚では、しばしば起こる状態や感情を描写しています。

おそらく、その夫は仕事や他の用事のために遅く帰りました。だから、彼女は怒って、彼が帰る前に寝てしまいました。そして、彼が帰ってきたとき、ドアの鍵がかかっていたので、彼は「開けて」と叫びます。

しかし、彼女はまだ怒って答えます。「もう寝ているよ。なぜあなたのために起きなければならないの。」

パウロは私たちに言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26-27)

たまには、私たちは妻や夫に怒ることがあります。私たちは無意識に相手を傷つけてしまうからです。

けれども、パウロは私たちに、怒っても罪を犯さないようにと言います。怒りや恨みを持ち続けてはいけません。そうすると、サタンに私たちの人生や結婚を壊す機会を与えてしまうからです。

ソロモンが遅く帰ってきたので、その妻は彼に恨みを持ちました。彼は頻繁に遅く帰ってきたかもしれません。または、その日だけ遅かったけれども、連絡をしていなかったのかもしれません。

いずれにせよ、彼が帰ってきても彼女はドアを開けてあげませんでした。

私たちは妻や夫を家に入れない経験はないかもしれませんが、どれほど私たちは自分の心を相手に対して閉ざすでしょうか。

また、もし相手が自分の心をあなたに対して閉ざした場合、どうしたら良いでしょうか。ソロモンは良い方法を私たちに示しています。彼は無理矢理に入ろうとしませんでした。むしろ、彼は彼の愛のしるしを残して去りました。

彼女はやっとドアを開けようと思ったとき、かんぬきの取っ手の上に没薬の液がありました。

その文化では、恋人はそのようにして、そこにいたことを示しました。現代では、それは花を贈るようなものです。(アメリカでは、謝る時に男性はしばしばそうしますが、日本では男性はどうするでしょうか。)

とにかく、時々、私たちは妻や夫に怒ってしまいます。時々、私たちはその怒りが正しいと思いますし、私たちの方が悪かったと思う時もあります。

けれども、サタンに私たちの結婚を壊す機会を与えたくないなら、相手の怒りに怒りで反応してはいけません。謝ってください。そして、あなたの愛を示してください。

彼女の夢では、彼女は彼の愛にもう一度感動しましたが、もう遅すぎました。彼はすでに去ってしまったので、彼女は彼を探しに行きました。

多分、自分の態度のために彼女は自分自身を責めてしまいました。だから、その夢では、巡回していた夜回りたちは彼女を打ちました。

他の人が彼女に「どうしてそんなに必死に彼を探しているのか」と尋ねたとき、彼女はソロモンについて好きなことを説明しました。

私たちが相手に怒っても、そのことについて考えるべきです。怒る時に、相手の欠点に焦点を合わせるのは簡単ですが、特に私たちが怒る時は、相手の良い点を覚えていた方が良いです。

彼女は彼の外見について話しますが、彼女は彼を恋人や友人としても描写します。私たちもそのことを覚えておくべきです。相手が私たちをがっかりさせるかもしれませんが、彼らはまだ私たちを愛しています。

彼女の友人が「では、私たちは彼を見つけるのを手伝うよ」と言ったとたんに、突然彼女は夢から目が覚めて、ソロモンが彼女の隣にいるのを見ました。彼は「ゆりの花の間で群れを飼っています」と言いました。(4:5と5:13を読んでください。)

彼女は自分の怒りをすぐに忘れて、こう言いました。

私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。(雅歌6:3)

結婚は自然に美しいものにはなりません。私たちは良い結婚のために努力しなくてはなりません。愛を育てなくてはなりません。ですから、自分の怒り、また相手の怒りを良い方法で処理しなくてはなりません。

あなたはどうですか。その怒りをどのように扱っていますか。

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詩篇

私たちの周りの悪によって怒られる

どれほどあなたは周りの悪によって怒るでしょうか。

詩人はそれを見て、本当に怒りました。彼は何を見たのでしょうか。偽りの唇。欺きの舌。平和を憎む人。戦いを望む人。

だから、詩人は呻きました。

ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(詩篇120:5)

メシェク人とケダル人たちは放浪の部族で、彼らは周りの人々を攻撃しました。

この詩人が彼らの間に住んだのか、それともそのような人々の間に住んだのかは、私は分かりません。

けれども、興味深いことは、この詩篇が都上りの歌であることです。つまり、人々がエルサレムに巡礼するとき、この歌を歌いました。

なぜ、彼らが神様に心を向け、礼拝するときに、このような歌を歌ったのでしょうか。あなたはそれがちょっと不思議だと思うかもしれません。しかし、私はそんなに不思議だとは思いません。

なぜなら、私たちの人生はいつも楽しいわけではないからです。私たちがこの世界を見るとき、落ち込むのは簡単なことです。

そのとき、私たちは神様がどこにおられるのかと思うかもしれません。また、神様が何かをしておられるのかと思うかもしれません。

けれども、詩人が神様に向かうとき、自分自身に思い出させます。「神様はいつか正義によって治めてくださるから、すべてのことは大丈夫。」

だから、彼はこう書きました。

欺きの舌よ。おまえに何が与えられ、おまえに何が加えられるのか。

勇士の鋭い矢、それに、えにしだの熱い炭火だ。(3-4)

だから、テレビのニュースを見るとき、がっかりしないでください。神様が良い方で、正義の方であることを覚えておきましょう。

そして、この世の悪に焦点を当てずに、全てを解決してくださる神を仰ぎましょう。

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ミカ書

神様の怒りと憐れみ

ある人々は「旧約聖書の神」を批判します。(「旧約聖書の神」と「新約聖書の神」は実際には同じ方であるにもかかわらず。)

彼らはこう言います。「旧約聖書の神は憐れみの神ではなく、怒りの神です。」

けれども、そのような主張をする人々は旧約聖書を慎重に読んでいないように感じます。彼らは神様の怒りの例を頻繁に見る一方で、なぜか神様の憐れみの例には目を向けようとしないのです。

(皮肉なことに、その人々が新約聖書を読む際には、神様の憐れみの例をよく見るものの、神様の怒りの例はほとんど見ていないようです。)

このミカ書の箇所では、神様の怒りの例と憐れみの例の両方を見ることができます。9節にはこのように記されています。

私(つまり、イスラエル)は主の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。(ミカ書7:9)

ある人々はこの箇所を読み、こう言います。「ほら、これが神様の怒りだよ。私が罪を犯すと、神様はすぐに私を罰すると書いてあるじゃないか。」

とはいえ、その箇所の最後の部分にも目を向けてください。

しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。

この箇所を読むとき、私はパウロの言葉を思い起こします。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ書8:33-34)

このミカ書の箇所とローマ書の箇所に基づくと、神様は私たちの裁判官であるだけでなく、私たちの弁護士でもあるのです。もし私たちがイエス様に属しているなら、イエス様は私たちの隣に立ち、とりなしをしてくださいます。

その時、イエス様はこのように言われることでしょう。

「父よ、私はこの人の罪のためにすでに支払いました。私の血によって、彼の債務は完全に支払われました。」

そして、神様はこう言われます。

「そうだ。それは真実だ。正義は成し遂げられた。あなたの罪は赦され、あなたは自由だ。」

このミカ書の最後の部分は本当に素晴らしいと思います。

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。(18-19)

この箇所で描かれる神様の姿が本当に素晴らしいと思います。

神様は私たちの罪のゆえに私たちを踏みつけることはされません。むしろ、神様は私たちの罪そのものを踏みつけてくださるのです。

神様は私たちを鎖で縛り、船から海の深みに投げ入れることはされません。むしろ、神様は私たちの罪を包み、海の深みに投げ入れてくださるのです。

この方こそ私たちの神です。怒りの神であるだけでなく、憐れみの神でもあるのです。

ミカはこう言いました。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。(20)

神様がヤコブとアブラハムに真実と憐れみを与えられたように、神様は私たちにも真実と慈しみを与えてくださいます。神様はそのように誓われました。(ヘブル6:13-20)

だから、ヨハネはこう書きました。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

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士師記

短気な人々

アメリカでは、ポリティカル・コレクトネス(政治的な適切さ)という表現があります。それは、ちょっと説明しにくい表現です。簡単に言うと、ポリティカル・コレクトネスは自分の言葉で他の人を怒らせないということです。

例えば、アメリカで黒人について話す時、ある言葉は本当に悪い言葉です。黒人に対してその言葉を使ったら、その人は本当に怒ります。(その言葉を私は言いません。その言葉が大嫌いだからです。本当に知りたいなら、Googleで調べてください。)

けれども、ポリティカル・コレクトネスには他の意味もあります。例えば、「Policeman」と言わずに「Police officer」と言います。なぜならば、警官はいつも男の人ではないからです。「Policeman」と言ったら、時々、女性は怒ります。

もし政治家が言葉を気をつけないと、人々を怒らせます。だから、「政治的な適切さ」と言います。

とはいえ、すべてのアメリカ人にとって、ポリティカル・コレクトネスは本当に大事です。

ある意味で、私はポリティカル・コレクトネスが分かります。ある程度まで、私は賛成します。けれども、ある種の人々はそれに対して怒りたいと思います。

もちろん、私たちは他の人々の感情に敏感になるべきです。そして、もし私たちの行動によって他の人々を怒らせたら、将来その行動を避けたほうがいいです。

とはいえ、多くの場合、私たちは「相手が私を怒らせたい」と思わないほうがいいです。なぜならば、多くの場合、彼らは本当に私たちを怒らせたくないからです。

もしその行動を許せないなら、謙虚な態度を取りながら相手と話したほうがいいです。

私は昔のアメリカン・フットボールの選手テリー・ブラッドショーの話を読みました。

彼がプロになったとき、アメリカで人種差別の問題がまだあったため、緊張した空気がありました。

ブラッドショーはアメリカの南部で成長し、プロになる前は黒人との関係が全くありませんでした。だから、ブラッドショーはいつも黒人を「Coloreds」、つまり「色がある人」と呼びました。

ある日、黒人のチームメイトが彼と話して、「色がある人というのはどういう意味でしょうか。私は紫でしょうか。緑でしょうか。赤でしょうか。」と尋ねました。

大切なのは、その黒人の言葉ではありません。大切なのは彼の態度です。彼は「お前は馬鹿な人種差別主義者だ」という態度を取っていませんでした。

むしろ、彼はブラッドショーが本当にその表現が黒人を怒らせることを知らなかったと理解しました。そして、ブラッドショーの性格と動機を疑わずに、その問題について話しました。

けれども、この聖書の箇所で、エフライム人はまったく違いました。士師記を読んでみると、彼らはいつも怒っているようです。

8章では、彼らはギデオンに怒りました。なぜなら、ギデオンがミデヤン人と戦ったときに、エフライム人を遅れて呼んだからです。

12章でも同じようなことがありました。

エフタがアモン人と戦うときに、エフライム人の助けを頼まなかったため、彼らはエフタを批判し、彼を脅しました。「私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う」と言いました。

ギデオンの場合、エフライム人の怒りをなだめることができました。しかし、エフタはそうしませんでした。むしろ、エフタはエフライム人と戦い、4万2千人を殺しました。

どうしてこの問題が起こったのでしょうか。おそらく誤解があったのかもしれません。

エフタは彼らに助けを頼んだと言っていますが、エフタが全イスラエルに助けを求めたにもかかわらず、何かの理由でエフライム人はそれを聞いていなかったのかもしれません。

私はエフタの行動が正しいとは言いません。ギデオンのように、彼はもっと外交的であるべきでした。

かといって、エフライム人は怒りっぽい性格のようでした。このような状況は二度目でした。

彼らがギデオンとエフタの性格や動機を疑わなければ、もっと良かったでしょう。「たぶん、彼らは私たちを怒らせたくなかったのかもしれない」と考えた方が良かったのです。

しかし、彼らはエフタの性格や動機を疑い、怒りを爆発させました。その結果、彼らはその態度のために命を失いました。

あなたはどうでしょうか。短気な方ですか。他人の行動や言葉に対してすぐに怒ることがありますか。

イエス様の使徒ヤコブの言葉を思い出しましょう。

しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブ1:19-20)

つまり、相手の説明を早く聞き、遅く責めて、遅く怒るべきです。相手の性格が悪いと常に想定すべきではありません。相手の動機が悪いと常に想定すべきではありません。むしろ、彼らの性格と動機が良いことを想定した方が良いです。

そして、もし彼らと話さなくてはならないなら、愛を持って真理を語るべきです(エペソ4:15)。

そうしないと、エフライム人のようにトラブルが起こります。

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士師記

なだめるような言葉

もし、誰かが不公平に私たちを責めたら、私たちはどう反応するでしょうか。

多くの人にとって、自然な反応は相手を責めることです。また、ひどい言葉を受けたら、私たちはひどい言葉を返します。他の人は何も言わずに、すねます。

しかし、そのような反応は良くありません。ギデオンはそれを知っていました。

ミデヤン人と戦うことを計画したとき、ギデオンはいくつかのイスラエルの部族に助けを求めました。けれども、その戦いがほとんど終わるまで、ギデオンはエフライム人に助けを求めていませんでした。

だから、エフライム人は怒りました。初めから、彼らは助けたかったのに、除外されたように感じました。彼らはギデオンが、他の手段がないときに彼らを呼んだと感じました。だから、彼らは言いました。

あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。(士師記8:1)

そして、彼らはギデオンを激しく責めました。

ギデオンはどう反応したでしょうか。ギデオンは彼らを責めませんでした。彼はすねませんでした。むしろ、ギデオンは言いました。

今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。。。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。(2-3)

その言葉によって、ギデオンはエフライムのプライドをなだめました。

箴言にこう書いてあります。

柔らかな答えは憤りを静める。(箴言15:1)

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを不公平に責めたとき、あなたはどう反応しますか。

時には、一番良い方法は、自分のプライドを抑えて、謙虚になることです。とはいえ、それは簡単なことではありません。

けれども、もし相手を本当に愛しているなら、そうする方が良いのではないでしょうか。