「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。
しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジプト記34:6ー7)
これは旧約聖書の中でもっとも有名な箇所の一つです。その言葉は旧約聖書の中で何度も繰り返されます。
なぜでしょうか。それは、その言葉が神様のご性格を表しているからです。
出エジプト記や他の旧約聖書の物語を読むと、神様を怒りの神と見なすのは簡単なことです。
確かに、ある意味で神様は怒りの神です。神様は罪を憎み、罰せられます。
良い神が罪を愛することができるでしょうか。正義の神が罪を見過ごすことができるでしょうか。
それでも、神様は「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す神」です。
神様は何度も裁きが迫ると警告されます。
しかし、人を裁く前に、神様がいつもご自分の民にその裁きについて知らせておられることに気づいたことがありますか。
たとえば、神様はアブラハムに知らせました。(創世記18章)また、モーセにも知らせました。(出エジプト記32章)
なぜ、神様はアブラハムとモーセに知らせられたのでしょうか。彼らがただその裁きを観測するためだったのでしょうか。
違います。その理由は、彼らがその人々のためにとりなすためだったのです。
いずれの場合も、神様は正義を実行されました。どうしても悔い改めない人々は裁かれました。けれども、アブラハムとモーセのとりなしによって、ある人々は救われました。
神様は必ず悪を裁かれます。けれども、それ以上に、神様は人をあわれみたいと願っておられます。
そのために、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちをあわれむことができます。
ですから、モーセのように、覆いを取り除かれた顔で、大胆に神様に近づきましょう。
私たちは神様の怒りと裁きを恐れる必要はありません。むしろ、神様に近づくにつれて、神様は私たちをイエス様と同じかたちに姿を変えてくださいます。(第二コリント3:12、18)
