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民数記のデボーション

性的な罪を軽く見ていないか

バラムが神様に仕えているかどうかという疑いがあれば、25章では、その疑いは解けました。なぜなら、バラムのせいで、イスラエル人たちは偶像礼拝や性的な罪に陥ってしまったからです。(民数記31:16)

その罪のゆえに、2万4千人のイスラエル人たちが死にました。

イスラエル人たちがその罪を犯したのは、これが二度目です。(出エジプト記32章)

さらに、民数記15章の話のように、イスラエル人たちは気づかずに罪に陥ったわけではありません。むしろ、彼らは故意に罪を犯したのです。

特に、祭司ピネハスが殺した人は、故意に罪を犯しました。

主の罰で多くの人々が死にかけている中で、また、モーセや他のイスラエル人たちが主の前で泣いている中で、その人はバアル礼拝の関係で、ある女性と性的な関係を持とうとしました。

その時代、売春と偶像礼拝には強い関係がありました。

もちろん、日本では今も偶像礼拝がありますが、性的な罪そのものが現代の偶像になっています。

現代社会では、多くの人々が性的な罪を軽く考え、実際には罪だと思っていないのです。(ローマ1:24、26-27、32)

しかし、神様によれば、その罪は死に値するのです。(ローマ1:32;第一コリント6:9-10)

そういうわけで、パウロはその二つの事件を振り返って、こう言いました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。(第一コリント10:7ー8)

あなたはどうですか。

現代の人々と同じように、性的な罪を軽く考えているのでしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一

性的な清さを守る

新約聖書の著者たちの時代と同じように、 私たちもまた、性的な罪に満ちた世界に生きています。

テレビ番組や映画、インターネットなど、 どこを見ても、そのような罪に満ちた描写があふれています。

しかし、セックスに関するこの世の考え方を受け入れてしまうなら、 私たちは、神様が与えてくださる本物の祝福の代わりに、安っぽい偽物を買ってしまうことになります。

神様が私たちのために備えておられる計画は、 夫婦が一つとなり、永遠に続く関係の中で結ばれることです。

けれども、多くの人々は、一時的な快楽で満足してしまいます。 その結果、やがて人生は壊れ、心は空しさに満たされていくのです。

性的な罪によって壊された人々の数は、数えきれません。 離婚、父親不在の家庭、母親不在の家庭、望まれない妊娠、中絶、性病、 そして深く傷ついた魂――そういった現実が、私たちのまわりに溢れています。

要するに、神様のご計画に反して、私たちは壊れた存在なのです。

だからこそ、パウロはテサロニケの人々、そして私たちにこう語りかけます。

 最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。

私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

あなたがたが淫らな行いを避け、 一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。

私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。(テサロニケ人への手紙第一4:4-6)

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」

それは、どういう意味でしょうか。

それは、私たちが神様のご目的のために選ばれたということです。 私たちは神様の宮とされたのです。 神様は、私たちのうちに住んでおられます。 パウロによれば、私たちのからだそのものが、神様の宮なのです。(第一コリント6:19)

しかし、聖なる者となるためには、私たちは性的にも清くなければなりません。

なぜなら、私たちが性的な罪を犯すとき、 私たちは自分自身のからだに対して罪を犯しているからです。(第一コリント6:18)

言い換えれば、私たちが性的な罪を犯すとき、 私たちは神様の宮を汚してしまうのです。

だからこそ、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と語ったあと、 パウロはこう命じています。 「淫らな行いを避けなさい。」

要するに、結婚していない者は、性的な関係を持ってはいけないということです。

私たちは、自分の本能のままに生きるだけの存在ではありません。 また、神様とその御心を知らない者でもありません。

神様は、ご自身とその御心を、私たちに明らかにしてくださいました。 そして、私たちには選択する力を与えてくださったのです。

だから神様は、その選択について、私たちに責任を問われます。

私たちが性的な罪を犯すとき、 それは共に罪を犯す相手に対しての罪でもあります。

また、その人が他の誰かと結婚しているなら、 その人の配偶者に対する罪となります。

そして、もし自分自身が結婚しているなら、 不倫によって自分の配偶者に罪を犯すことになります。

パウロは、そうしたことのゆえに、私たちは裁きを受けるのだと語っています。

神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。(7)

神様がご自身の聖なる民とするためにイスラエルの民を選ばれたように、 神様は、私たちもまた、ご自身の聖なる民となるように召してくださいました。

あなたは、聖なる人でしょうか。

パウロは、性的な聖さに関して非常に厳格でした。 彼はこのように語っています。

ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。(8)

要するに、パウロは自分の意見を述べているのではありません。 彼は、神様のことばを伝えているのです。

ですから、もしそのことばを拒むなら、 私たちはパウロをではなく、神様ご自身を拒んでいることになるのです。

あなたは、結婚している人々への神様の賜物を乱用してはいないでしょうか。

あなたの生活の中で、神様を拒んでしまってはいませんか。

パウロのことばを心に留めておきましょう。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19-20)

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コリント人への手紙第一

なぜ性的な罪はそれほど深刻なのか

もちろん、すべての罪は悪いものです。けれども、パウロは特に性的な罪が深刻であると語っています。

特に、クリスチャンにとって性的な罪は重大なものだと強調しています。

そこで、パウロは次のように語りました。

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。(コリント人への手紙第一6:615a)

パウロはさらに説明します。

しかし、主と交わる者(つまり、クリスチャン)は、主と一つの霊になるのです。(17)

また、

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり(ます)(19a)

では、もし私たちが遊女と関係を持ったら、どうなるでしょうか。

パウロは次のように語っています。

それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。(16)

要するに、神様がセックスを創造された目的は、単に子供を生み出すことや楽しむことだけではありません。それは、夫と妻が一体となるためのものです。

セックスによって、単なる肉体的な結びつきだけでなく、深い感情的な一致も生まれます。たとえ遊女と関係を持ったとしても、その一致が形成されるのです。

このことを踏まえ、パウロは非常に衝撃的な描写を用いて警告を与えています。

それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。(15b)

私は、パウロの論点をさらに説明する必要はないと思います。

しかし、罪は遊女との関係だけに限らず、あらゆる性的な罪が悪いのです。

「淫らな行い」や「不品行」とは何でしょうか。それは、夫婦の関係以外での性的行為を指します。

夫と妻の間のセックスは神様に祝福されるものですが、それ以外の性的な行為は神様に呪われてしまいます。(9)

では、なぜ性的な罪は他の罪と異なるのでしょうか。それは、性的な罪が特別な形で私たちに影響を及ぼすからです。この罪によって、私たちは相手と深く結びついてしまいます。

だから、パウロは次のように語っています。

人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(18)

おそらく、多くの人々はパウロの言葉を理解できるでしょう。

けれども、心に留めておきましょう。私たちの体は、キリストの体の一部なのです。

ですから、遊女と関係を持つことは、まるで私たちがイエス様をその遊女と結びつけているかのようです。

また、他の人の配偶者と関係を持つことは、まるでキリストがその罪に関与するかのようです。さらに、彼や彼女と関係を持つことは、まるでイエス様がその罪に加わるかのようです。

それは、非常に恐ろしい考えではないでしょうか。

だから、パウロは次のように語っています。

淫らな行いを避けなさい。。。あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(18-20)