神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(使徒の働き10:15)
(ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。
ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。(28節)
イスラエルの民をご自身の民として召されたとき、神様は食べ物に関する多くの規定を与えられました。「この食べ物やその食べ物は、あなたたちにとって汚れている」と言われました。
しかし、その規定の目的は単なる健康上の配慮ではありませんでした。むしろ、それらの日々の規則を通して、イスラエルの民は周囲の国々の慣習に流されず、神様の導きに従って生きるべきであることを思い起こさせられました。
神様は彼らにこう教えようとされたのです。
「周りの人々がある食べ物を口にしているからといって、あなたたちもそれを食べるべきとは限らない。
同じように、周りの人々がある罪を犯しているからといって、あなたたちもその罪を犯すべきとは限らない。
今や、あなたたちは私の民である。だから、私に従いなさい。」
そういうわけで、神様が「汚れている食べ物」を食べるように命じられたとき、ペテロは衝撃を受けました。
ところが、ペテロが「この食べ物は汚れています」と言ったとき、神様はこう言われました。「私はこのものをきよめた。私がきよめたものを、汚れていると言ってはならない。」
けれども今回も、神様は単なる食べ物について話していたのではありませんでした。
むしろ、神様がペテロに示そうとされたのは、神がアブラムに与えられた「大いなる国民となる」という約束が、もはやユダヤ人だけに限られないということです。
その約束は、かつて「汚れた異邦人」とされていた者たちにも与えられました。つまり、イエス様を信じるすべての人が神様に受け入れられるということです。(エペソ2:12-18)
神様は私たちについても語られています。かつて、神様の約束は私たちのものではなく、私たちは神の民から除外され、希望を持たず、神様との関係もありませんでした。
しかし、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちをご自身に近づけてくださいました。私たちはきよめられ、罪の咎も清められました。
だからこそ、今、私たちは聖徒です。私たちは神の子供です。
けれども、多くのクリスチャンは自分をそのように見ていません。
もしかすると、過去の罪を思い出して恥じているのかもしれません。または、何度も罪に負けてしまうために、失望し、恥を感じているのかもしれません。
あるいは、幼い頃から、両親や先生に「お前はダメだ」と言われ続けてきたのかもしれません。
あなたはどうでしょうか。自分を汚れた存在だと思ってしまうことはありますか。神様があなたを「聖徒」と呼ぶことが、残酷な冗談のように聞こえることはありませんか。
鏡を見たとき、あなたは何を見ますか。その人を受け入れることができますか。それとも、「自分はダメだ」という考えが、心の中で響き続けているでしょうか。
神様はあなたにこう語られています。
「わたしがきよめたものを、あなたが汚れていると言ってはならない。 わたしはあなたの罪をきよめた。だから、罪悪感を抱き続ける必要はない。
わたしはすでにあなたを受け入れている。自分を責め続けるのはやめなさい。 あなたはわたしの愛する子なのだから。」
