私たちは本当に神様の恵みを理解できているでしょうか。その恵みを深く理解するなら、私たちの態度はどれほど変わるでしょうか。
自分のお金をささげること、自分の時間をささげること、自分の人生をささげることについて、私たちの考え方はどのように変わるでしょうか。
パウロはコリントの人々にこう語りました。
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙第二8:9)
恵みとは何でしょうか。それは、神様の祝福に値しない者に祝福を与えることです。イエス様は恵み深い方であり、その恵みに値しない私たちを祝福してくださいました。
イエス様が何をしてくださったのか、考えてみてください。
イエス様は天国において富んでおられました。しかし、「富んでおられる」とは、お金や金銀をたくさん持っていたという意味ではありません。天国では、そうしたものに価値はありません。けれども、イエス様は天の父の栄光を持ち、天使たちから礼拝されていました。
イエス様は天の父の王座の右に座しており、何一つ欠けることがありませんでした。さらに、イエス様はすべてを治め、イエス様にあって万物は成り立っていました。(コロサイ書1:15-18)
それでもなお、イエス様はご自身の栄光を捨て、天国を離れ、人間としてこの世に来られました。
イエス様は王としてではなく、金持ちとしてでもなく、むしろ貧しい大工として来られました。そして、ご自身の奉仕を始められた時、イエス様には枕する所すらありませんでした。(ルカ9:58)
そして、ご自身の人生の終わりには、イエス様は礼拝されるのではなく、むしろ侮辱されました。王座には座らず、十字架につけられました。栄光をもって治めるのではなく、恥を受けて十字架につけられました。
なぜでしょうか。
それは、私たちが豊かにされるためです。イエス様の十字架の御業によって、私たちの罪の負債は支払われました。そのため、私たちはいつか御国でイエス様と共に治めることになります。(ローマ書8:17)
イエス様は惜しみなく恵みを与えてくださいました。
だから、私はもう一度尋ねます。
あなたは本当にその恵みを理解しているでしょうか。
その真理を実感しているでしょうか。もしそうなら、私たちの人生に大きな影響を与えるはずです。
イエス様が惜しみなく私たちを恵まれたように、私たちも周りの人々に惜しみなく恵みを与え始めるでしょう。
正直に言うと、私もこの真理をもっと深く実感する必要があります。
あなたはどうでしょうか。イエス様の恵みを理解しているでしょうか。その恵みは、あなたから周りの人々へと溢れ出しているでしょうか。
