言葉は力あるものです。 言葉によって、人は建て上げられ、言葉によって、人は取り壊されます。
だからこそ、パウロはこう言いました。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ人への手紙4:29)
「悪い言葉」とは、「腐った言葉」と訳すこともできます。 私たちは、そのような腐った言葉を一切口にしてはいけません。
では、「腐った言葉」とは何でしょうか。 31節を見ると、いくつかの例が挙げられています。 無慈悲な言葉、怒りの言葉、ののしりの言葉、悪意に満ちた言葉などです。
このような言葉によって、聖霊が悲しまれるのです。 なぜなら、それらの言葉はキリストのからだを分裂させるものだからです。
忘れないでください。この箇所の中心テーマは、キリストのからだの一致を保つことです。 けれども、もし、私たちの言葉によって、互いにかみつき合い、食い合っているなら、 その一致を保つことはできません。(ガラテヤ5章15節)
では、私たちはどのような言葉を語るべきでしょうか。 それは、成長に役立つ言葉や、聞く人に恵みを与える言葉です。 人々にそのような言葉が必要なとき、私たちはそれを語るべきです。
注目すべき点が二つあります。
一つ目は、話す前に、何を言うべきかを考える必要があるということです。 私たちは周囲の人々を見るとき、彼らのニーズを考えるべきです。
しかし多くの場合、深く考えずに言葉を発し、相手を傷つけてしまいます。 もし私たちが相手のニーズに心を留めるなら、不用意に傷つけることはないでしょう。
二つ目は、私たちの言葉が恵みに満ちたものであるべきだということです。 言い換えれば、私たちの言葉は人々に恵みを与えるものであるべきなのです。
私たちの口からどんな言葉が出ているでしょうか。 裁きの言葉でしょうか。責める言葉でしょうか。 それとも、恵みの言葉でしょうか。
けれど、私たちの言葉だけでなく、行いもまた恵みを表すべきです。 だからこそ、パウロはこう言います。
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(32)
場合によっては、それは難しいこともあるでしょう。 相手を親切に扱うのが難しい時もあります。 相手に憐れみを持てない時もあります。 相手を許すのが辛い時もあります。
しかし、私たちは神の親切や憐れみや赦しに値しませんでした。 むしろ、私たちは神の怒りと裁きを受けるにふさわしい者でした。
それでもなお、神様はご自身の憐れみと恵みを私たちに注ぎ、 私たちの罪を赦してくださいました。
だからこそ、パウロはこう言います。
ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。
キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(エペソ人への手紙5:1-2)
私たちのために十字架でご自身のいのちをささげたとき、イエス様は天の父にとって芳ばしい香りとなりました。
同じように、私たちが神様の子どもとして歩み、周囲の人々に神様の愛と恵みを表すとき、 私たちも天の父にとって芳ばしい香りとなります。
そして、私たちが人を愛する時、特に愛しにくい人を愛する時、 私たちは本当に神様の子どもであることを証しするのです。 そのようにして、私たちクリスチャンはイエス様にあって一つとされていきます。
あなたはどうですか。 あなたは自分が神様の子どもであることを証ししていますか。 あなたは日々、周囲の人々を愛し、建て上げていますか。
